今回のお話は、ケルトの神話についてお話いたします。ただ、これはなかなか大変な問題です。というのは、ケルトの民族は文字をもたなかったので、彼らのオリジナルの神話は現代には残されていないからです。
わずかな救いは、アイルランドにキリスト教を布教するためにやってきた宣教師たちが、民間信仰を抹消することなく積極的に文字に書き起こしてくれたことです。それでおぼろげながらもケルト神話を知ることができるのです。ただし、これにはふたつの問題があります。
この問題をお話しし、それを前提にしてアイルランドに伝わるケルト神話について解説したいと思います。
まずは、ケルト神話を探求する時の問題点からお話ししていきましょう。
ケルト神話の問題
ひとつは、ケルト神話を書き残したのはキリスト教を布教するための方便だったということ。もうひとつの問題は、現代「ケルトの神話」とされているものは、アイルランド限定だということです。
キリスト教布教の方便として編集されたケルト神話
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ケルトとキリスト教が 融合したケルト十字 |
しかし最近の研究によると、ケルトの神話はキリスト教を布教するための方便として使われたとする説が有力になってきています。実際にケルトの神話は聖書に合うように編集された箇所が多くみられます。
たとえば、アイルランドに移り住んだ最初の民族は、聖書にある「ノアの洪水」の被害を避けるために移り住んだ民族ということになっています。また、ケルトの創世神話は、唯一神が創ったとされる聖書とは相いれないためか、残っていません。
ただしわずかにですが、ケルトの創世神話をうかがわせる逸話が残っています。
ケルト民族が恐れたもの
紀元前334年頃、アレクサンダー大王はアジアに遠征に行くにあたり、自国を留守にすることを心配してケルトと同盟を組みました。
大王はケルトからの使者に質問します。「ケルト民族が最も恐れるものは何か?」と。
すると使者は「何も恐れるものはないが、空が自分たちの上に落ちてくることだけが恐ろしい」と答えます。しかしケルトが大王を裏切るようなことがあれば、「空よ、自分たちの上に落ちろ。大地よ、裂けて我々を飲み尽くせ」といって、忠誠を誓うのです。
つまり、世界の始まりの時に、神が空を持ちあげたというような神話があり、その空がいつか落ちてくるかもしれないと信じられていたことを思わせます。
現代に伝わるケルト神話はアイルランドの神話
大陸に残されたケルト民族の文化の痕跡と、ブリテン諸島およびアイルランドに残されたそれとは共通するものも多くありますが、違うところもあります。
たとえば、民族の最高権威としてのドゥルイド(ドルイド)僧は、ブリテン諸島およびアイルランドではとても重要視されますが、大陸のケルトはそれほどでもなかったという説があります。
また、大陸ケルトではキリスト教宣教師が積極的に神話を書き残すということはしませんでしたので、神話は後世に伝わらず、その痕跡は民話となって残りました。
大陸ケルトはギリシアとの交易も盛んだったのでギリシア神話との混交も著しいようです。それはまたキリスト教に融合されて、たとえばケルトの神話に登場するグリーンマンのレリーフが、教会の壁や祈祷台の装飾として使われてもいます。
アイルランドはイングランドの属国のように扱われた歴史が長かったとはいえ、侵攻され征服されるということはありませんでした。そのためアイルランドの文化は、他の文化に浸食されることなく保護されました。アイルランドのケルト神話は、ある程度キリスト教化された神話だったにしても、原型をうかがわせるものであることに変わりないのです。
しかし、アイルランドのケルト神話が大陸のケルト神話と同じものなのかという疑問は残ります。これがケルト探求者によるさまざまな論争を生む種になっています。
アイルランドに入植した頃の人類の神話
さて、アイルランドのケルト神話について、分類を試みてみましょう(井村君江著『ケルトの神話』による)。
井村氏は神話を次の3つに分類しました。
- ダーナ神族の神話群=アイルランドの最古の神々の話
- アルスター神話群=1世紀頃のコノール・マックネッサ王と赤枝の騎士団
- フィニアン騎士団=4世紀頃のフィン・マクール王と騎士たち
純粋な神話は(1)のダーナ神族の神話になりますが、(2)も(3)も、活躍する英雄たちは、ギリシア神話におけるアキレウスのような半神半人として描かれ、ダーナの神々が彼らの親であり、彼らを助けて活躍するお話になっています。
私のブログでは詳細を避けるため、ダーナ神族の神話群に絞ってお話ししたいと思います。いつか、他の神話にも触れる必要が出てきたときがあれば触れたいと思います。
アイルランドに入植した民族とフォモール族との戦い
現代に残されているアイルランドの神話は、ノアの洪水が始まる少し前から始まります。
ヨケイ・オフリンという詩人が書いた古代神話によると、ノアの洪水の40日前にアイルランドにやってきたのがノアの息子ピトの娘セゼールたちで、この人たちがこの島に最初に移り住んだ人々ということになっています。
・アイルランドの最初の人類
ノアが洪水に備えて方舟をつくっているとき、ノアの息子のピトが自分の娘セゼールのために、舟に彼女の部屋もつくってくれと頼みました。するとノアは、「この世界の西の果てにある島に行けば洪水を避けられる」とピトに言います。
そこで、ピトとセゼールたちは3艘の舟を仕立てて出発しましたが、7年3か月の間、海を漂うことになってしまいました。そして3艘のうち2艘は難破し、アイルランドにたどり着いたのは1艘だけ、上陸できたのはピトとセゼール、男2人と女50人だけだったのです。
しかしその一行も、上陸の40日後に起こった洪水により全員が滅びてしまいます。たったひとり、フィンタンという男を除いて。
・フィンタンの語るアイルランドに入植した種族(神族)
フィンタンはその後5000年間生きて、アイルランドに次々と入植してきた5つの種族について語っています。5つの種族とは次の5種族です。
- バーホロン族
- ネメズ族
- フィルボルグ族
- トゥアハ・デ・ダナーン族(ダーナ神族)
- ミレー(ミレシア)族=人類の祖先
フィンタンによれば、各種族は常にフォモール族と戦わなければなりませんでした。
フォモールとは「海の下」という意味です。暗黒の海底にいるフォモール族は、闇や悪を象徴する魔物たちでした。いずれも不格好で気味の悪いものたちです。
なかでもバロールという怪物は魔眼を持っていました。その目からは殺人光線を発することができ、それで相手を殺してしまうのです。
魔眼のまぶたはあまりに重いので普段は閉じられています。光線によって人間を殺すときには、手下がまぶたを持ちあげて目を開かせるのです。そんなバロールも、光の神ルーの剣によって倒されます。
トゥアハ・デ・ダナーンの神々
フィンタンほどは長生きではありませんでしたが、バーホロン族の生き残りのトァン・マッカラルは、雄鹿、猪、海鷲、鮭、人間と、それぞれ年を取るたびに変身を繰り返し、その何百年の間に見たアイルランドの歴史を語って死にます。このトァンの物語は、1100年頃に書かれた『侵略の書(レボル・ガバーラ)』に収められました。
トァンは、アイルランドに次々とやってきた種族のことを話しましたが、トゥアハ・デ・ダナーン族だけは「ダーナ神族」として別格扱いです。トゥアハ・デ・ダナーンとは「女神ダヌを母とする種族」という意味になります。
ダーナ神族は巨人神族です。この神々は昼と光と知恵をあらわす神々で、次にやってきたミレー族に敗れたため海のかなたと地下に逃れ、そこに王国を築いて住んでいます。
これらの国は「常若の国(ティル・ナ・ノーグ)」と呼ばれ、以前にお話しした『フェヴァルの息子ブランの航海』『百戦の王コンの息子、美貌のコンラの冒険』にでてくる楽園のことになります(第25話参照)。
この「常若の国」はまた巨石遺跡の地下にも存在し、巨石建造物はダーナ巨人神族によって築かれたとされました。
ダーナ神族はかつて巨人でしたが、人々からその記憶が薄れ信仰心もなくなるにつれ小さくなっていき、妖精となっていきました。
妖精となったダーナ神族は悪戯好きで、悪い人間をひどい目に合わせたり、良い人間には優しく手をさしのべたり、あるいは人間に恋してその人をさらっていったりします。
妖精については次のお話で詳しくお話しいたします。
ダーナ神族の神々
さてダーナ神族にはどんな神がいるのでしょう。この項では中心的な神々の名前と特徴をご紹介します。ダーナの神々はいずれも金髪碧眼で背が高く、美しい身体をもっていました。音楽の才能もあります。
ダーナ神族の母ダヌ
ダーナ神族の母ダヌ(属格はダーナ)は中世までブリギッドと呼ばれていました。またゴール族にはブリギンド、ブリテンの古書にはブリガンティアとも呼ばれていました。
ブリギットは、ケルト神話では主となる神で生命の源となる母神です。また、万能の神ダグダの三人娘のひとりといわれ、火、かまど、生命と詩歌の女神とされています。
語源である「ブリ」には、「優越、能力、権威」という意味があります。中世になってアイルランドではダーナという名前で呼ばれ、キリスト教が入ってくるとキルディアの聖ブリジッド信仰と混同されたようです。
トァンが見たダーナ神族は、魔法の雲に乗ってやってきたことになっていますが、南の島からやってきたという説もあります。この説によると、神族は魔法の力のある道具を持ってきたことになっています。
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グンデストゥルップの大釜 |
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ラボ教育センター刊 『はだかのダルシン』 |
『はだかのダルシン』に登場するブリジッドの釜を思わせますね。
リア・ファイルという運命の石は、正しい王が戴冠式の時にその上に立てば、人間の声で叫び声をあげ予言をするといわれています。
ダーナ神族の中心的12神
さてそれでは、大母神ダヌ以外のダーナ神族のなかから12神をあげて、簡単にご紹介しましょう。
- ダグダ
- 大地と豊穣の神、知恵の神、全知全能の神。魔法のこん棒と竪琴と釜をもつ
- ヌァダ
- ダーナ神族の王。モイツラの戦いで片腕を失ったが、医術に優れたディアン・ケヒトに手術で銀の腕をつけてもらったことから「銀の腕のヌァダ」と呼ばれる。不敗の剣を持つ
- ルー
- 太陽・光の神。知識・技能・医術・魔術・発明など全技能に秀でる。戦いにおいては槍を巧みに使うので「長腕のルー」の異名をもつ。「ルーの鎖」は天の川。ディアン・ケヒトの孫にあたる。金髪で美男。英雄ク・ホリンの父
- マナナーン・マクリール
- 海の神リールの息子。海のかなたにある「常若の国」の王。マン島にはマナナーンの王座がある。魔法の船・魔法の馬・魔剣をもつ
- ディアン・ケヒト
- 医術の神。薬草と魔術で病を治す。泉に呪術をかけ、傷ついた戦士を元通りの身体に戻すことができる
- ゴブニュ
- 鍛冶の神。技術とくに建築の神。呪術者。彼が作った武器は、必ず敵を倒す力があるとされる。病を治す力ももつ
- ミディール
- 地下の神。ロングフォードとマン島に妖精の丘を持つ。ダグダの息子。魔法の牛と魔法の釜を持つ
- オィングス
- 愛と若さと美の神。ダグダとボアーンの間に生まれた子。ボイン河のほとりにある妖精の丘の王
- オグマ
- 雄弁・霊感・言語の神。戦いの神。オガム文字の発明者。ライオンの毛皮を着た年寄りの姿をしていて、彼の話す言葉は黄金
- モリガン(モリグー)
- 戦いの女神。カンムリ鳥の姿で戦場を飛び回り、血と死を求める女神。乙女・老婆・牛・狼・ウナギ・海ヘビに変身する。アーサー王伝説のモルガン・ル・フェの前身。ダグダの愛人
- ヴァハ
- 戦いの女神。モリグーとバズヴと彼女の3人は同一視されることが多い。戦場に転がった人間の首を餌とするカラスの姿をとる。浅瀬で、戦死するはずの兵士の鎖や武器を洗うといわれ、死を予告する不吉な妖精バンシーの前身
- ボアーン
- ボイン河の女神。ダグダの母で愛人。二人の間にオィングスが生まれる
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(注)リア・ファイル(運命の石)
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スクーンの石のレプリカ |
この石は、6世紀にスコットランド王ファーガスが即位するときに、アイルランド王マータツ・マクアークから借りてスコットランドに持ち込まれた、といわれています。
運命の時は13世紀のこと。
好戦的なエドワード1世(長脛王)がイングランド王として即位したのは1272年のことでした。彼は人生の後半でウェールズを討伐して息子のエドワードをウェールズ大公に叙し、フランスにも戦を仕掛けました。
彼はスコットランド併合も企んでいたのですが、スコットランドには正式な王が君臨していて簡単には手を出せません。
ところがスコットランドでは、ダンカン王(『マクベス』に登場するあのダンカン王のモデルです)以来の直系の血筋が途絶える、という事態が起こりました。そこでスコットランドはエドワード1世に救いを求めたのです(1290年)。
長脛王は1291年に「大訴訟(グレート・コーズ)」を開き、王家の血をひくジョン・ベイリアルをスコットランド王に指名しました。
それで終わればよかったのですが、これをきっかけに長脛王は、スコットランドの内政に干渉を始め、フランス遠征への協力を要請します。反発したスコットランドは、逆にフランスと同盟を結んで長脛王をけん制したのでした。
これに激怒した長脛王はスコットランドに侵攻。瞬く間に制圧してしまいました。そのときに長脛王は「運命の石(スクーンの石)」を奪い取ってイングランドに持ち帰り、ウェストミンスター修道院の自分の椅子にはめてしまったのです。
スクーンの石は、スコットランドの歴代の王が戴冠式の時に使用してきた由緒ある石です。これはスコットランドにとって由々しき事態でした。
スコットランドはイングランドに対して挙兵しました。平民出身のウィリアム・ウォレスは戦術に優れ、スターリングの戦いにおいてイングランド軍を撃破します。
フランス遠征中だった長脛王はすぐに帰国してウォレス軍を壊滅させ、ウォレスを処刑しますが、今度はスコットランド王家の血筋を引くロバート・ブルースが、スコットランド王ロバート1世として即位します。
これを聞いた長脛王はスコットランド討伐のため北上しますが、1307年3月にイングランド北部カーライルにおいて赤痢に罹患し、あっけなく崩御してしまいました。
あとを継いだエドワード2世は、父が築いたスコットランドへの足掛かりをすべて放棄し、軍を引き上げさせました。逆にスコットランドのロバート1世は、イングランドに占領されたスコットランド南部を取り返し、イングランド侵攻をうかがうまでになったということです。
To be continued
●参考にした図書
『ケルトの神話 ― 女神と英雄と妖精と』井村君江・著 ちくま文庫
最初の章でケルトを概観し、次の章からケルトの各神話について「天地創造神話のない神話」「ダーナ神族の神話」「アルスター神話」「フィアナ神話」に分類し、詳しく解説した好著です。
著者の井村氏は、このほかに多数の著書もありますが、W.B.イエイツが著した『ケルト妖精物語』『ケルトの薄明』の翻訳も手掛けられています。
『イギリスの歴史』君塚直隆・著 河出書房新社
イギリスの歴史を調べるにあたって、もっとも重宝した本です。イギリスの歴史についての本は他にもいろいろ買いましたが、この本が一番参考になりました。
この本は2022年3月が初版で最新の知見が書かれており、イギリスの歴史について概要を知るには最適ではないかと思います。イギリスがなぜブレグジットを行うことになったかもわかります。
※「●参考にした図書」には、Amazonで同じ図書を購入できるバナーが貼ってあります。私のブログをご覧になって参考図書に興味を持たれた方は、このバナーからAmazonのサイトに行くことができます。
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これまでも今後も、私はネットに転がっている情報ではなく、実際に買った書籍を参考にしてお話をしていきたいと思っています(筆休めの回は別)。
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無理にとは申しませんが、掲載した図書にご関心のある方は、ここからAmazonで買い物をしていただけると、これからお話を続けて行く原動力になります。
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