前話では、ドゥルイド(ドルイド)僧がケルトの民人の指導者であり部族の最高権威者で、王さえもドゥルイド僧のことばに従った、というお話をしました。

彼の語ることばは呪術的な力があると信じられ、ケルトの戦士が命知らずなのは、ドゥルイド僧が霊魂不滅思想を説くからだと、ギリシアやローマの人々は考えました。

ただ、ギリシア人やローマ人が考えていた霊魂不滅思想と、ケルトの人々が信じていたそれとは、根本的な違いがあります。

何より、ケルトの人々が考える死後の世界は、とても明るいのです。

今話では、古代ギリシア・ローマの人々が考えた冥界をご紹介し、その後にケルトの人々が考えた常若(とこわか)の国についてお話しします。

なぜこのお話をするかというと、ケルトの人々のこの死後の世界に対する考え方が、妖精の存在を信じさせる要因になったからです。それはまた、生からではなく死から始まるケルトの死生観、ひいてはハロウィーンにつながっていきます。

ギリシア・ローマ人が想像した死後の世界

ギリシア・ローマの、それもピタゴラス教団の人々が考える輪廻転生説は陰鬱です。人間は罪人であるから、人間の魂は地上をうろついて転生を繰り返すのだ、というのが彼らの輪廻転生説でした。

ギリシア神話に見る死後の世界

古代ギリシア人の宇宙
ホメロスが書いたといわれる『オデュッセイア』では、キルケ―(注)がオデュッセウスに、死後の世界について「死後の世界は、広大な大洋の彼方、大地の東にある」と語っているシーンがあります。

この「大洋」とは、巨大な河オケアヌス(オケアノス)のこと。ギリシア人の宇宙観は、大地は平たくてオケアヌスという大河にぐるりと取り巻かれていると考えました。冥界はその大河のはるか東にあるというわけです。

死んだ者はこの大河を渡っていかなければなりません。そこは太陽の光の届かない世界で、黒いポプラや柳が生えていますが、植物が実をつけることはありません。また、命あるものが生きながらえることはできない世界です。

また、冥界に入る一歩手前に「ペルセポネーの森」という入口があり、死者はここを必ず通らなければなりません。

ハデスとケルベロス
その門には、50の頭をもち、青銅のような響きを発する番犬ケルベロスが控えていて、そこを通る者を怖がらせました。一説によれば、頭は3つというものもあり、蛇の剛毛が生えていて口から黒い毒液をしたたらせているともいわれています。

ここを通り過ぎれば、もう生前に後戻りすることはできません。

冥界の支配者はハデスです。ハデスは絶対君主として冥界を支配しました。

ピタゴラス教団が教える輪廻転生説

ディオドロス
シケリアのディオドロスは『歴史文庫』の28節で、ケルト人が生命を軽んずるのは、彼らがピタゴラス的な輪廻転生を信じ、死後の一定期間の後に、再び新たな肉体をとって生き返ると考えるからだ、と述べています。

では「ピタゴラス的輪廻転生説」とはどのようなものなのでしょうか?

ピタゴラス教団が教えるところによれば、もともと人間は神々とともに天界に住んでいたが、人間は罪を犯して天界から追い出され、肉体という牢獄に閉じ込められて地上をさまようことになった、といいます。

そして、罪の償いが終っていない者は天界に帰ることを許されず、肉体は滅びても魂は新たな宿所を求めてさまよい、見つけては転生を繰り返すのだとしました。

これに対し、ケルト人の死生観には罪とか償いとかの観念はありません。

ケルトの人々が考えた死後の世界と輪廻転生


ケルトにおいても罪人(つみびと)の死後は嘆きの世界で「生き」続けるしかないのですが、良き人々が死ぬと、永遠に老いも病気も死もなく、温暖でいい匂いに包まれた世界、食べ物や飲み物のなくなることもない常若の国に行くのだ、と考えました。

人間は死後に「常若の国」に行った後、しばらくそこで過ごしてから再び生まれます。「常若の国」の所在地は海のかなたか、あるいはストーンヘンジなどの巨石遺跡の下にある国だとされました。

ケルトの物語にはよく妖精が登場しますが、妖精はかつて生きていたダーナ神族であり、人びとの記憶が薄れていくとともに小さくなっていった者たちだといわれています。ダーナ神族が、巨石遺跡の下に国を作り、今もそこに住んでいるのだと信じられていました。

一方、現代のケルト研究者は、ダーナ神族はケルト人がブリテン島に侵入する前に住んでいた民族で、ケルト人が根絶やしにした後、神として巨石建造物に祀った人々だと考えています。

ストーンヘンジ
ストーンヘンジのそばを通ると、死んだはずのダーナ神族が妖精となって現れるのは、そこが現世と来世の境界にあるから。つまりケルト人は、生者の世界と死者の世界は隣接していて自由に行き来できる世界なのだ、と信じていたのです。

このことをよく示しているのが、ケルト人が遺した伝説のなかのイムラヴァという物語群です。

イムラヴァ(幻想的航海の物語)

イムラヴァとは幻想的航海の物語です。

少し長いですが、例として、現存するイムラヴァのなかで最古の物語といわれる『フェヴァルの息子ブランの航海』と『百戦の王コンの息子、美貌のコンラの冒険』の物語をご紹介しましょう。

・『フェヴァルの息子ブランの航海』

フェヴァル王の息子のブランが城の近くを歩いていると、美しい音楽が流れてきます。それがあまりに心地よかったので、ブランは眠り込んでしまいました。

ふと目が覚めると、そばに白い花をいっぱいつけた銀の枝が置かれています。

それを持って城に帰ると、大勢の人々の真ん中に見知らぬ乙女が立っていました。その娘は美しい歌声でブランをエヴナの国に誘うのです。

乙女はさらに続けて、エヴナの国は不老不死の国。美しく、すべての人が幸せに暮らしている。その国は海の彼方にある、と歌います。

歌い終わると、ブランが持っていた枝はいつの間にか乙女の手に戻り、その姿は掻き消えてしまいました。

翌朝、ブランは27人の供を連れて海へ漕ぎ出します。途中でいろんな不思議な出来事に出会いながら、なんとかエヴナの国にたどり着きました。

じつはそこは女人の国で、ブラン一行は、毎日毎日美酒やごちそうなどでもてなされます。彼らが望むもので叶えられないものはありません。皆、時の経つのも忘れて酔いしれました。

ところがある日、仲間の一人が望郷の思いにとらわれます。なんとしても帰りたいということになって、故郷に向かって出発することになりました。

エヴナの女王は、途中で置き去りにしてしまった仲間を連れて帰ることと、帰り着いても陸地に足をつけてはいけないと忠告して送り出します。

無事に仲間を救い出し故郷に帰りつくと、ネフタールという男が矢も楯もたまらず、女王の忠告を忘れて舟から跳び降ります。すると足が地面についたとたん、彼の体は灰になってしまったのです。

それを見たブランは、岸に集まってきた人々に、これまでの航海の一部始終を語った後、また海の彼方へ漕ぎ出していきました。

・『百戦の王コンの息子、美貌のコンラの冒険』

ある日、コンラが父コン王とウシュナハの高台に立っているとき、見知らぬ女がコンラに近づいてきました。その姿はコンラにしか見えません。

コンラが、どこから来たのかとたずねると、女は「生命の国からきた」と答えます。そこは死もなく罪もなく、不正もなく、常に酒食があふれ、毎日饗宴が続く、神々が住む国シイだ、というのです。

王には女の姿が見えないので、「お前はいったい誰と話しているのだ?」といぶかります。

すると女が歌で答えます。「彼が話している相手は美しく若い女。高貴な生まれで、死ぬことも年を取ることもない女です。私は赤肌のコンラを愛してしまいました。私は彼をマグ・メル(歓びの野)にお招きします。そこを治めるのは勝利の栄光に包まれた永遠の王、王座に就いて以来、民にいかなる嘆きも苦しみも与えたことのない王です。さあ、私のところにいらっしゃい。(中略)もし、私の言うことを聞いてくださるのなら、あなたの若さも美しさも永遠に色褪せることはありません」

コン王は、これを聞くと慄然としました。息子が呪いにかけられたと思ったのです。このままでは息子が奪われてしまうと思った王は、ドゥルイド僧に救けを求めます。

ドゥルイド僧は女に呪文をかけ、彼女の声が誰にも聞こえないようにし、次いでコンラにも女の姿が見えないようにしました。しかし、女はそれよりも早く、コンラにリンゴを渡していたのです。

それからというもの、コンラはそのリンゴ以外は何も食べなくなりました。リンゴはまた、いくら食べてもなくなることはありません。

コンラは、女を恋焦がれ、悲しみに打ちひしがれる毎日を過ごすようになりました。

そうこうしているうちに、その月の最後の日にコンラはまた彼女に会います。女はまた妙なる声で歌を歌い、コンラを誘いました。

この時も王はドゥルイド僧を呼んで女を退散させるのですが、3度目には連れ去られるのではないかと心配します。

それからというもの、コンラは「女はきっとくるだろう」としか言わなくなってしまいました。

するとまた女は現れて、次のように歌います。

あなたは私のことで歓びを感じている
悲しみは波の上に置き去られるでしょう
水晶の舟で私たちが着きさえすれば
勝利の神の都に着きさえすれば

そこに行って不幸になる者などいない
そういう国があるのです
おや、もう日も傾きはじめました
その国は遠いけど、夜になるまでには着くでしょう

そこは歓びの国
そこを訪れる者は誰でもそう思うでしょう
そこは女たちと娘たちの国
他にはだれもいません     (訳・田中仁彦) 

これを聞いたコンラは、すぐに水晶の舟に乗ります。父や家族や仲間と別れて海の彼方へ消えていきました。その日から彼の姿を見た者はいません。

***

この二つのお話を聞いて、何かピンとくることはありませんか? 

そうです。わが国の昔話「浦島太郎」にそっくりではないでしょうか。このお話を読んだ時には、私はとてもびっくりしてしまいました。

このお話を解説してくれている『ケルト神話と中世騎士物語』の著者、田中仁彦氏は、現実の世界とエヴナおよびシイの国は地続きだが、両者は時間の流れが違うと述べています。

つまり、かの国での数日間は現実世界での数百年にあたる。だからネフタールが地面に足をつけたとたん、一気に数百年の時間が彼に襲いかかって灰にされたということなのです。

「浦島太郎」でいえば、玉手箱を開けてしまったということです。

田中氏は、かの国こそケルトの人々が考えた「死後の世界」だろうといいます。死んだ者はもう年を取ることも死ぬこともありません。常に温暖で植物は枯れることもなく、食べるものも飲むものも尽きることがないのです。そこは時間というものがない世界なのです。

しかし生きる者の世界に帰れば、時間は時を刻み始めます。冷酷な時間という鎌は、人間を一刀両断にして灰にするのです。

シイの国

「シイの国」とは、どこのことでしょう? ずばり、田中仁彦氏は「妖精の丘」つまり墳丘やドルメンのことだ、と断定します。

ケルト世界ではさまざまな巨石遺跡が今も残っていることは、皆さんもご存じでしょう。

いたる所に、メンヒル(立石)、ドルメン(巨石墳)、テュミュルスまたはケルン(墳丘)、クロムレック(ストーンサークル)といった遺跡があるのが知られています。これらの遺跡は今もなお多くの謎を抱えていて、考古学者の興味をひきつけています。

先ほどお話いたしましたように、ケルトの人々は巨石遺跡の周辺を異界との境界を接する場所だと考えてきたようで、ここで妖精と出会うことが多いと考えています。そして巨石建造物の地下には、死者の国があるのだと。

ところで、ここにご紹介したふたつのお話では、主人公は海に漕ぎ出していってエヴナおよびシイの国に到達したとあります。しかしこれら巨石遺跡は、海のかなたにあるのではなく地続きで、歩いて行けるところにあるのです。

この矛盾をどう考えたらいいのでしょうか。私は、この「海」というのは幻の海、臨死体験の幻想が生み出した三途の川のようなものではないかと考えます。

W.B.イエイツ
アイルランドの有名な詩人・劇作家のウイリアム・バトラー・イエイツは、彼の著作『ケルトの妖精物語』で、こう述べています。

たとえ新聞記者といえども、もし真夜中に墓場に誘い出されたなら、妖怪変化(ファントム)の存在を信じるだろう。というのは、どんな人間でも、もし人の心の奥に深い傷跡を残すような目に会えば、みんな幻視家(ヴィジョナリー)になるからだ。しかし、ケルト民族は、心に何の傷を受けるまでもなく、幻視家(ヴィジョナリー)なのである。

ケルトの人々は心に傷を負うこともなく臨死体験をするまでもなく、幻(?)を見ることができるというわけです。

私は、イエイツの『ケルトの妖精物語』や『ケルトの薄明』という著作を読んでいますが、じつに多くの人が「妖精」を実際に見たという話であふれています。彼らにとっては、妖精は空想上の存在ではないのでしょう。

話は変わりますが、「ももたろう」も<鬼ヶ島>に鬼退治に行きますね。島というからには海を渡って行きそうなものですが、船出をしたという場面はありません。ももたろう一行は、鬼から取り返した金銀財宝を大八車に乗せて帰ってきます。つまり、島に行くと言いながら、じつは地続きの「島」に行ったお話なのではないかと。

そして、幻の海は「三途の川」。「島」はあの世であり鬼の住む世界。この世との境には三途の川が流れていて、あの世とこの世を隔てています。じつは、ケルトにおけるあの世とは常若の国のことであり、この世との境には、海や川、湖などといった水と関係するものがあるというのが、古代ケルトの思想にはありました。

ここにも日本とケルトのつながりを感じますが、みなさまはどうお考えになりますか?

次回のお話では、シイの国とされる巨石遺跡のことについて、お話ししたいと思っています。巨石遺跡は現在でも謎の多い遺跡なのです。

To be continued


**********

(注)キルケ―

古代ギリシアの詩人ホメロスはトロイア戦争をめぐる壮大な叙事詩『イーリアス』『オデュッセイア』を遺しました。

『オデュッセイア』はトロイア戦争に勝利したオデュッセウス一行が帰国の途中で漂流し、様々に不思議な体験をする物語ですが、キルケーとの遭遇もその一つです。

ラボ・ライブラリーの『オデュッセウス』では、一つ目巨人のキュクロープスとの戦いが取り上げられていますね。

キルケ―は、太陽の神とされるヘリオスの一人娘です。父親はりっぱな神なのに、彼女は邪悪な呪(まじない)と魔術を使う女神でもあったようです。

オデュッセウス一行もキルケ―の呪によって豚に変身させられました。ただひとり、オデュッセウスだけがヘルメスからもらった薬草のおかげで助かったのです。

オデュッセウスはキルケ―に厳しく命じて、兵士たちにかけた魔法を解かせ、人間に戻すことに成功します。しかしオデュッセウス自身は、それから1年間もキルケ―と一緒に過ごしてしまいました。

まったく……。男って奴は……。



●参考にした図書

『ケルト神話と中世騎士物語―「他界」への旅と冒険』田中仁彦著 中公新書

ケルトの神話の中でもケルト人が考える「他界」について、様々な神話をもとに解説しています。また、ケルトの神話が中世騎士物語に与えた影響についても著し、心理学的な考察にまで触れています。

『ケルト妖精物語』W.B.イエイツ・編 井村君江・編/訳 ちくま文庫

この作品は、イエイツが民間で伝わってきているアイルランドの妖精物語を集めたものです。それは物語になっていたり詩になっていたりしていて、自然にケルトの世界に引き込まれるようです。

章立ては、「群れをなす妖精(フェアリー)たち」「取り替え子」「ひとり暮らしの妖精たち」「地と水の妖精たち」と、妖精の生態によって分けられ、最後にイエイツによりアイルランドの妖精の分類が試みられています。

「群れをなす妖精たち」なんて、『グリーシュ』を思わせますね。

『ギリシア神話』フェリックス・ギラン・著 中島健・訳 青土社

さすが、信頼の青土社。ギリシア神話に登場する、多分すべての神々、ニンフ、英雄について、エピソードともに網羅的に解説しています。

物語のように、最初から読み込むというような用途には向いていませんが(私だけそうお思ってる?)、「この神は、どんな神だろう?」などと、辞書的に使うには最適だろうと思います。

学生時代は、呉茂一さんの『ギリシア神話』が教科書でしたが、どこに行ったかなあ?

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明治大学文学部を卒業した後、ラボ教育センターという、子どものことばと心を育てることを社是とした企業に30数年間、勤めてきました。 全国にラボ・パーティという「教室」があり、そこで英語の物語を使って子どものことば(英語と日本語)を育てる活動が毎週行われています。 私はそこで、社会人人生の半分を指導者・会員の募集、研修の実施、キャンプの運営や海外への引率などに、後半の人生を物語の制作や会員および指導者の雑誌や新聞をつくる仕事に従事してきました。 このブログでは、私が触れてきた物語を起点として、それが創られた歴史や文化などを改めて研究し、発表する場にしたいと思っています。

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