最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンと離婚するときには、離婚を成立させるためにヴァチカンの教皇庁と対立し、ついにはイギリス国教会を作ってそのトップに収まり、「見事」に離婚を成立させて意中の人だったアン・ブーリンと結婚しました。
とても個人的な目的のために(いや本人は国の問題として考えていたかもしれませんが)、プロテスタントのテイで独自のキリスト教一派をつくりあげ、じぶんがその首長におさまるなどという芸当は、国王にしか許されないことでしょう。しかし、これがまた後の紛争の種になりエリザベス女王を悩ませます。
また、伝統的なカトリックとイギリス国教会との争いは、シェイクスピアにも大いに影響が与えられたと、シェイクスピア研究の第一人者で演出家の河合祥一郎氏も喝破されております。後の何話かでこれについても触れたいと思います。
長男にアーサーの名を
第10話で、ヘンリー7世はテューダー家の家系であり、その本拠地はウェールズだということを書きました。当時、ウェールズにはケルト系の人びとの本拠地でした。ご存じのとおり、あちらこちらの標識や看板には今でも英語とともにケルト語が書かれています。
ウェールズは、『アーサー王と円卓の騎士』の伝説で有名なアーサー王を輩出した国だ、ということはご存じでしょう。
5世紀の前半にはブリテン島はローマの支配が終わりを迎え、ケルト系ブリトン人は北方のピクト人やスコット人らの侵略に悩まされるようになります。そこでローマに助けを求め、ローマはアングル人やサクソン人といったゲルマン諸族を派遣しました。
ところが、ブリトン島の豊かさに気づいたアングル人やサクソン人はピクト人やスコット人を蹴散らしただけでなく、ブリトン人も支配下に置くようになります。
アングル人やサクソン人とブリトン人との闘争は200年以上続きました。最終的にはゲルマン諸族が勝利するのですが、ブリトン人がゲルマン諸族を壊滅的なまでに敗退させた戦いがあります。「パドニクスの丘(ペイドン山)の戦い」です。その時の軍事的指導者がアーサーでした(史実としての記録としては王ではなく軍事指導者となっています)。
後に、ジェフリー・オブ・モンマスが「アーサー王伝説」を掘り起こし、アーサー王はアングロ=サクソン人に虐げられてきたウェールズの人びとにとって希望の光となり、偉大な英雄として讃えられます。それはやがて『アーサー王と円卓の騎士』に集大成され、ウェールズの人びとだけでなくイギリス人にとっての誇りとなっていったのでした。
ヘンリー7世はこの伝説にならって、自分の初めての子にアーサーの名をつけて未来を託したのです。
アーサーの結婚、ヘンリーの結婚
英仏百年戦争やバラ戦争で疲弊したイングランドの主な産業は未完成な毛織物と羊毛であり、とても復興を進める力にはなりません。さらにイングランドの商人はアントワープの金融界に多額の借金をしているという体たらくです。
こうした財政難が背景となって、ヘンリー7世は超大国スペインにすがることを考えます。それは、スペイン王国と連合関係にあったアラゴン王国のキャサリン・オブ・アラゴン(カテリーナ)をアーサーと結婚させるということでした。1501年、二人の結婚は成立します。しかし、アーサーは結婚後5ヶ月でこの世を去ってしまいました。
当然キャサリンはアラゴンに帰国させるべきでしたが、ヘンリー7世はスペイン王国に諮って、次男のヘンリー(後のヘンリー8世)の妻として、イングランドにとどめることにしたのです。
伝統的なカトリック教の教義によれば、兄嫁との結婚は禁止されていましたが、ローマ教皇からなんとか許可を取り付けました。ヘンリーはいまだ11歳です。彼が成人に達したときに結婚するということで婚約が成立しました。
離婚問題とイングランド国教会の成立
1509年のヘンリー7世崩御にともない、ヘンリー皇太子はヘンリー8世として即位します。18歳になっていたヘンリー8世は即位の2か月後に、約束通りキャサリンと結婚しました。キャサリンは24歳になっていました。6歳も年上の妻です。家柄としては卓越しており、スペイン王フェルディナンド5世の娘にして、当時絶大な権力をもっていたハプスブルグ家嫡男カール(のちのカール5世)の叔母でした。
時は戦乱の世。ヨーロッパではいつ戦争が起こってもおかしくありません。このような世の中では、国王としては男子が望ましいと考えたヘンリー8世は、世継ぎとして男子を切望しました。
キャサリンは6人の子どもを身ごもりました。そのうち2人は男児です。しかしそのほとんどは、流産したり生後2か月を待たずに死亡したりして育ちません。わずかに次女のメアリーだけが成人しました。
なお、このメアリーは成人してのちメアリー1世として即位しますが、プロテスタントのキリスト教徒を残酷に迫害したので、ブラッディ(血の)・メアリーとあだ名をつけられます。
そうこの名前は、カクテルのブラッディ・メアリーのもとになりました。
ついにキャサリンは48歳になり、子どもを産むには高齢になりすぎてしまうと、嫡男を切望するヘンリーは、離婚を考えるようになりました。
しかし、ハードルはとても高いものです。キャサリンの後ろに控えている相手はカトリック教国で超大国のスペイン王国です。さらに、カトリックの教義によれば離婚は認められるのが困難です。
まずローマ教皇の許しを得ようと考えて、側近中の側近のトーマス・ウルジ―を遣わしました。離婚の理由としては、兄嫁を妻にしてはいけないというキリスト教の教義に違反しているので、そもそもこの結婚は無効であるということでした。
しかし、時代がそれを許しませんでした。当時、宗教改革の影響でスペイン国王カール5世と教皇の間で確執が深まり、カールは教皇と戦ってローマを占領します。ローマを支配下に置いたカール5世は、叔母のキャサリンがヘンリー8世との離婚を望んでいないことを知っていましたので、断固として阻止したのです。教皇との調整に失敗したトーマス・ウルジ―は失脚します。
ヘンリー8世は離婚問題の解決のために議会を招集します。この議会は長期にわたって開かれ、1529年に始まり1536年4月にようやく解散します。
この議会で決まったことのひとつに「国王至上法」があります。それは国王をイングランド教会の唯一最高の首長と規定するということでした。ここにイングランド国教会が成立し、ローマ教皇とは決別することが決定しました。ヘンリー8世はこの権力をもって、離婚を成立させます。
ヘンリー8世の結婚遍歴
ヘンリー8世は、生涯に6人の妻を持ちました。キャサリン・オブ・アラゴンを最初の妻とし宗教改革で離婚した後は、アン・ブーリン、ジェーン・シーモア、アン・オブ・クリーヴス、キャサリン・ハワード、そして最後の妻がキャサリン・パーです。
アン・ブーリン
アン・ブーリンはヘンリー8世の妹のメアリーがフランス王ルイ7世に嫁ぐときに、メアリーに仕えるため一緒に渡仏した人です。ルイ7世が崩御し、メアリーが帰国した際には、アンはいっしょに帰国せずそのまま残って、教養や作法などを身につけたといわれています。容姿はそれほど卓抜してはいなかったようですが、男性を惹きつける魅力をもった人だったようです。アンが1521年に帰国すると、彼女を見初めたヘンリー8世は早速ラブレターを書きますが、たとえ国王であろうとも、愛人になるのはまっぴらと国王の求愛を拒否します。
このことがかえってヘンリーの恋心に火をつけ、相当量のラブレターを書いたといわれており、現在もその一部が残っているそうです。
ヘンリーの想いはようやく通じ、アンが懐妊したのが1532年。この子を後継ぎにしたいと考えたことも強硬にキャサリンとの離婚をすすめたかった理由でした。
宗教改革の後、離婚が成立して子どもも産まれました。しかし、またしても女児でした。この人が後のエリザベス女王です。その後、アンは2回妊娠しますがいずれも流産してしまいます。
もともと勝ち気で口も達者なアンに、ヘンリーは2回目の流産のあたりから嫌気がさしてきます。そこでアンを、不義密通を理由に処刑してしまいました。この不貞は、しかし濡れ衣であったというのが定説です。
公開処刑は当時の民衆のエンターテインメントだったそうですが、アンの処刑については秘密裏に行われました。1536年のことでした。
ジェーン・シーモア
ジェーンは、アン・ブーリンに仕えていた女性のひとりでした。アンが処刑される1年前くらいにヘンリーは彼女を見初め、処刑の11日後にジェーンと結婚します。そして待望の男児エドワードを得ます。しかしジェーンは産褥熱がもとで出産後すぐに亡くなってしまいました。
おそらくヘンリーはこの人を最も愛していたのだろうと思われます。従順だったジェーンはヘンリーに口答えをしたことがありませんでした。ヘンリーは生前に自分の墓を用意しており、そこに埋葬されるのが許されたのはジェーンだけだったといいます。
アン・オブ・クリーヴス
ジェーンの死を悼んだヘンリーは、その後2年間独身でしたが、時代はそれを許しませんでした。とにかくヴァチカンと決別したのですから、イングランドはヨーロッパの国際社会から孤立してしまいました。そこで、有力なプロテスタントと結びつく必要が生じ、側近のトーマス・クロムウェルの進言を受け入れて新たな妻を迎えることになりました。
白羽の矢が立ったのはクリーヴズ公の娘であるアメリアとアンの二人です。なにしろお見合い写真などない時代ですから、肖像画だけが頼りです。ヘンリーは、肖像画を見てアンと結婚することにしました。
ところがアンの容姿は肖像画に似ても似つかず、ヘンリーの好みに合いませんでした。おまけに音楽や文学などの教養にも疎い人で、「フランダースの雌馬」などと陰口をたたかれる始末。しかし、このまま三下り半を突き付けてはクリーヴズ公の顔に泥を塗ることになります。
公の機嫌を損なわないように苦しい言い訳をつけて離婚しました。じつに6ヶ月の結婚生活でした。
キャサリン・ハワード
キャサリン・ハワードは美貌の女性で、アン・ブーリンのいとこです。ヘンリーとは30歳も年下でした。魅力的な女性でしたが、いかんせん奔放な性格で、他の男と不義密通を重ねていたといいます。
その不貞が発覚して、キャサリンは処刑されました。
処刑直前、イングランド王妃としてではなく、不倫相手のひとりであるカルペパーの妻として死にたいと叫んだそうです。
今もハンプトン・コート宮殿に幽霊になって現れるということですが、ほんとかな?
キャサリン・パー
ヘンリー8世は52歳になりました。身体も衰弱してきており、かつての精力にあふれた男ではありません。そこに嫁いだのはキャサリン・パーでした。いわゆる良妻賢母型の妻で、ヘンリー崩御の日まで王に尽くしました。また、離婚によりプリンセスの称号を剥奪されていたメアリー(キャサリン・オブ・アラゴンの娘、後のメアリー1世)とエリザベス(アン・ブーリンの娘、後のエリザベス1世)、ジェーン・グレイ(ヘンリー8世の末妹。9日間女王に即いたが、ヘンリー8世の娘メアリーにより処刑)を復権させ、皇太子のエドワードほかにも愛情を注いだ人でした。
さて、ヘンリー8世はドン・ファンか
「英雄色を好む」といわれますが、やはり男子がなかなか生まれなかったというのが、結婚離婚を繰り返した一番の原因なのでしょう。アン・オブ・クリーヴスを離婚した理由が不器量だったからというのは、アンがちょっとかわいそうな気もしますが。
それに、キャサリン・オブ・アラゴンと離婚をするためにイングランド国教会を作って、そのトップに座るというのは、ずいぶん〇〇な人だとも思いますが、それが国王という権力者の一般的な精神だったのかもしれません。
ヘンリー8世は、男子をなかなか得ることのできなかった国王だったから、妻を替えるのも仕方なかったといえるかもしれません。そんな意味ではドン・ファンではないのかな?
でも、ドン・ファンも理想の女性に会えなかったから女性遍歴を繰り返した寂しい人、という感じもあります。そういう意味ではヘンリー8世もドン・ファンだったのかな、とも思うのです。
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