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ドレイクのゴールデンハインド号 |
しかし守るだけではじり貧状態に変わりなく、富国強兵を図って、大国の侵略を許さない国づくりをしなければなりません。教科書的な富国強兵策ではとうてい実現しそうもないそんな野望を、女王は海賊を使うという手段で叶えようとしました。実際それは、未来の大英帝国建設の礎(いしずえ)となったのです。
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フランシス・ドレイク |
今回のお話ではシードッグについてとドレイクの戦績、そして彼を歴史上の英雄(表向き)にした世界周航を中心にお話します。
シードッグは「冒険家」
当時の超大国スペインは、コロンブスがアメリカ大陸を発見して以来、金銀財宝を求めてカリブ海の島々や中南米の王国を侵略し、産出する宝を独占していました。特に銀は貨幣として商取引には欠かせないものになっていたので、ボリビアのボトシ銀山から採掘される銀は、スペインに莫大な富をもたらしていました。
女王は、このスペインの財宝を海賊に掠奪させて、それで利益を得ようとしたわけです。とくにドレイクがスペインから奪った財宝は、対外負債の返済だけでなくオスマン帝国との貿易を独占的に扱うレヴァント会社の出資金になり、そこで得た利益が東インド会社の設立につながっていきました。
国家権力と結びついた海賊は「女王陛下の海賊=シードッグ(Sea Dogs)」と呼ばれ、国王軍と同じように軍事を司る部隊と考えらえていました。逆にいえば、国家権力とは関係なく略奪を繰り返す海賊は、犯罪者として厳しく罰せられたのです。以前、第3話でご紹介したキャプテン・キッド(『宝島』のモチーフになりました)がそうでしたね。彼は縛り首にされた後、タールを塗られて数年間さらされました。
国家のために海賊行為を働くシードッグは、歴史書では「探検家」「航海家」「冒険商人」などと表記されることが多いです。もちろん、たまには目覚ましい冒険やイングランドに利する合法的な貿易をすることもありましたが、メインの仕事はスペインやポルトガルの船を襲うことですので、財宝を満載したスペイン船やポルトガル船などを見ればすぐに表の顔を脱ぎ捨てて襲いかかることも躊躇しません。シードッグと海賊との区別は、あいまいだったといえます。
こういった「海賊」を後年の歴史家は私掠船(Privateers)と呼び、その乗組員を私掠船員と呼んでいます。
フランシス・ドレイクの主な「功績」
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フランシス・ドレイクの世界周航 |
ここで、ドレイクの戦績を概観してみましょう。
パナマ地峡のラバ隊を襲う
1573年3月、ドレイクの船団は、パナマ地峡(この頃はまだパナマ運河はありませんでしたね ^o^)に到着します。ここを通過するスペインのラバ隊を襲い、約30トンにも及ぶ金銀を強奪しました。一度には運びきれず、一部は付近に埋めて隠したほどだったとのことです。
太平洋側からの襲撃、そして世界周航
1578年、スペインやポルトガルの船や港を太平洋側から襲って、莫大な金銀財宝を略奪します。スペインやポルトガルが警戒したのはカリブ海近辺で、まさか太平洋側から襲ってくるとは考えてはいなかったので油断があり、警備の手薄な船や港は易々と攻略されてしまったのです。
大西洋から太平洋に出るときドレイクがとった航路が、南米大陸と南極大陸の間にあるマゼラン海峡を通って太平洋に回り込む航路です。マゼラン海峡のあたりは、俗に「絶叫する60度」(ページの最後に動画)といわれる海域なのです。南緯60度付近は遮るものがなくて激しい風と高波に襲われることが多く、当時の脆弱な船体では相当な被害を免れません。
これを嫌ったドレイクは、当初の計画を変更して太平洋を西に横断する決断をしたのです。これが結果として世界周航(世界一周)を実現させることになりました。彼以前にはマゼランが成功させていますが、マゼランは航海の途中で死亡していますので、船団の長が帰還できたのはドレイクが最初ということになります。5隻をたばねて出発したドレイクの船団も、帰港できたのはたった1隻、彼の乗ったゴールデンハインド号だけでした。
この時にもたらした財宝は莫大で、対外負債を支払い、この資金をもとにオスマン帝国との貿易を独占したレヴァント会社を設立し、その売上金を基にして東インド会社が設けられます。
ドレイクがパナマやスペイン船・ポルトガル船から財宝を持ち帰ったとき、イングランドは湧きに湧きましたが、女王はそんな彼を利用しない手はないと考えます。エリザベス女王はまず、ドレイクにナイトの称号を与えます。授与式は世界周航を果たした彼の船ゴールデンハインド号の甲板上でした。
女王は彼を海賊という犯罪者ではなく英雄として扱い、ドレイクというアイドルのもとにイングランドへの愛国心をかきたて、挙国一致体制をしくことを考えます。この狙いはその後のドレイクの活躍によって実現していきます。
一方、被害を受けたスペインは、プロテスタントを標榜して独立を目指すネーデルランド(オランダ)をイングランドが応援していることや国教会(プロテスタント)をエリザベスが復活させたこと、メアリー・ステュアートの処刑、ドレイクの海賊行為、さらにはドレイクに対して何もしないどころか英雄視するイングランドに対して怒り心頭に発します。
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フェリペ2世 |
アルマダの海戦については、次号にお話ししましょう。
なおこの海戦に、『ドン・キホーテ』を書いたミゲル・デ・セルバンテスが参加していたことは有名ですね。この海戦を起点として、イングランドは大英帝国への第一歩を、スペインは落日の第一歩をそれぞれ始めました。
『ドン・キホーテ』には、落ち目になっていく故国の運命を惜しむセルバンテスの心情が反映されているように思うのですが、いかがでしょう?
スペインとの衝突は避けられないと悟ったイングランドは、海賊行為を本格化させて、スペインを弱体化させる作戦に出ます。
スペイン植民地襲撃
1585年、ドレイクの船団はスペインの植民地の襲撃を開始しました。ドミニカを皮切りにイスパニョーラ島のサント・ドミンゴ、南アメリカ大陸のカルタヘナ、ケイマン諸島、キューバ、フロリダまで経めぐり、その間にスペインの港を次々と急襲。掠奪、破壊、放火を繰り返し、防備の薄かったこれらの港はドレイクに降伏するしか選択肢はありませんでした。
この遠征における財宝の収奪については、大したことはありませんでした。しかしイングランドは、スペインに対して戦える、という自信を深めたのです。この時の戦闘は『サー・フランシス・ドレイクの西インド諸島航海に関する要旨と真相』と題する本に記され、カリブ海の民衆を解放する英雄として描かれます。
スペイン本土襲撃
1587年4月、ドレイクはおよそ20隻の船団を率いてスペイン本土を攻撃します。
まずは、スペイン南部のカディス港を襲撃して停泊していた帆船に襲いかかり、掠奪と放火の限りを尽くします。
後にこのときの戦果についてドレイクは、「なに、ちょいとスペイン王のヒゲを焦がしてやったさ」とうそぶきましたが、スペイン側にとってこれはとんでもない奇襲攻撃でした。なにしろドレイク船団はイングランド国旗を掲げないまま入港したので現地の役人は味方の船と勘違いして受け入れてしまい、スペインの商船団がまさに一瞬で拿捕されてしまったからです。
ここでは目ぼしいものを全部掠奪すると大半の船を沈没させ、利用価値のあるスペイン船を自らの船団に組み入れました。
さらに6月、今度はスペインの国王船サン・フェリペ号を拿捕します。ちょうどスペインの東インド会社から帰還していたところだったので金・銀・ビロード・スパイス・陶磁器などを満載しており、まさに宝船でした。もちろんこの船も船団に加えます。
その他にも、スペインの多くの高性能の船を拿捕し、自らの老朽船を沈めて乗り換えていきました。貧乏国イングランドのこと、イングランドの船は国王船といえどもボロボロの老朽船だったのですが、つぎつぎと最新鋭の船に更新していったのです。
山のように財宝を詰め込み、ヴァージョンアップした帆船に衣替えしたドレイクの船団が帰国したのは、1587年6月末のことでした。
シンジケートが組まれた女王陛下の海賊
なお王室といえども、このような船団を派遣するだけの財力はありません。貴族やお金持ちも一人でスポンサーになれるほどの富豪はいません。どうやって資金を集めたかというと、シンジケートを組織したのです。
シンジケートとは、誰かが発案者になってスポンサーシップを呼びかけ、それに応じた人たちが資金を出し合う、という方法です。獲得した獲物は出資金に応じて配分されてシンジケートは解散します。次の遠征が決まるとまた新たに組みなおすのです。
もし、遠征の結果、収穫がすくなければリターンも少なく、船員への給料も滞ってしまうという、ハイリスク・ハイリターンの「商売」でした。
なお、レヴァント会社や東インド会社も当初はシンジケート形式で運用されました。どこかに本社ビルがあったわけではなく、ある富豪の海賊の家が仮の事務所として使われていたようです。
サン・フアン・デ・ウルア事件に誓う復讐
ドレイク一家はホーキンズのもとへ
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ジョン・ホーキンズ |
ホーキンズの密貿易
1563年、ジョン・ホーキンズは3隻の船を率いてカリブに向かいます。当時、スペインがカリブ海の貿易を独占していたのですが、その一角に食いつこうというのがホーキンズの狙いでした。この時は、エスパニョーラ島のサント・ドミンゴで密貿易を成功させています。
1565年には、今度はベネズエラで密貿易を仕掛けます。この時はスペインも警戒してして他国の人との貿易を厳しく禁止しましたが、ホーキンズは強引に売買を成立させ、イングランドに多大な利益をもたらしました。
さらにその2年後の1567年にも新大陸に向かいました。この時は女王も密かに出資者になっています。ところが今度は新大陸に向かう途中のカリブ海で、嵐に遭って船に破損が生じ、メキシコのサン・フアン・デ・ウルアに避難を余儀なくされたのです。
敗走する船団
現地のスペイン人の役人たちは、それがイングランドの海賊船団とは知らず、仲間だと思って易々と受け入れてしまいます。即刻、サン・フアン・デ・ウルアはホーキンズに占拠される事態になりました。
ところが運の悪いことに、その2日後には13隻ものスペイン艦隊が現れました。さらにそのスペイン艦隊にはメキシコの副王が乗船していました。困ったホーキンズはお互いに人質を出し合い、平和裏に事をはこぶことを条件に入港を許したのです。
ところがスペイン艦隊は入港するや約束を反故にして、ホーキンズの船団に襲いかかりました。この急襲からかろうじて脱出できたのは、ホーキンズの乗ったミニオン号とジュディス号だけでした。
そのジュディス号の船長はフランシス・ドレイクだったのです。この事件に激しい憤りを覚えたドレイクは、スペインに復讐を誓いました。
To be continued
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絶叫する60度
ドレイクが恐れた南米の南端と南極の間にある「絶叫する60度」がどんなものか、動画がありましたので掲載しておきます。現代の船でもこんな調子ですから、16世紀の脆弱な帆船では、かなり危険な航海だったと考えられます。
なお南緯40度は「吠える40度」、南緯50度は「狂う50度」と呼ばれているそうです。
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