第15話 女王陛下の海賊フランシス・ドレイク(その2)ー無敵艦隊との戦い

2022/12/08

『ピーター・パン』 『宝島』 海賊 物語

t f B! P L


前話までに、イングランドとスペインの間で戦争への緊張が高まってきたいきさつをお話ししました。

エリザベス女王は、自らと国の存亡をかけて私掠活動(海賊行為)を奨励し、それがスペインとの戦闘に発展することは十分覚悟していました。

一方スペインには、弱小国イングランドが強大なる自国に対して歯向かってくることが気にくわず「ひと思いにひねりつぶしてやろう」という思いがありました。それはフェリペ2世の名を戴いた国王船サン・フェリペ号が襲撃されるに至って決定的になったのです。

1588年、ついに戦端が開かれました。

1588年5月、スペイン無敵艦隊は130隻の最新鋭ガレオン船で得意の三日月形の隊列を組み、3万人の戦闘員を乗せ、威風堂々リスボン港を出港します。

対するイングランドは見る影もなく貧弱な陣容。多少、スペインやポルトガルから奪った帆船が使えるかなという状態で、あとは老朽化した船ばかりのお寒い状況です。

普通に両者を見比べれば、イングランドに勝ち目はまったくないように見えました。

しかし結果は、大方の予想に反してイングランドの大勝利。女王をはじめイングランド国民は、してやったりと小躍りしたことでしょう。

なぜイングランドが超大国スペインに勝てたのか、今回はその一部始終をお話したいと思います。

無敵艦隊との戦い

アルマダの海戦

普通なら勝てない相手に対して勝利するには、十分な事前準備が必要です。スペインとの戦いが避けられないことを予測していたイングランドは、早くから戦闘に備えて戦略・戦術を練っていました。

イングランドの戦略・戦術

「敵を知り己を知れば、百戦危うからず」

孫子の兵法の有名なことばですね。イングランドはこれを地で行くかのように、戦争の準備をしました。

事前準備としては次のようなことがありました。

・諜報活動

エリザベス女王が即位した1558年から15年後の1573年、イングランドにスパイ組織が生まれました。その中心人物が女王の秘書長官フランシス・ウォールシンガム。彼は国内に100人以上のスパイを抱え、ヨーロッパ大陸には少なくとも71人のスパイを放っていたとみられています。

スペインとの関係が怪しくなっていたころ、その動向はつぶさに彼のもとに集まり、逐一女王に報告されていたようです。つまり、フェリペ2世がいつイングランド攻撃を指令するか、また艦隊がどのルートを通りどこに投錨するか、といったことは事前にわかっていたのです。

・海軍の編成

この海戦が始まる前から、女王はイングランド海軍の兵隊を密かにフランシス・ドレイクやジョン・ホーキンズの海賊船団に送り込んでおり、その戦術を身につけさせていました。

そしてスペインとの海戦にあたっては、逆にドレイクの船団を海軍に組み込んだのです。両者の実戦経験が、スペインとの戦闘にあたっては大いに生かされました。

・火船作戦

圧倒的に強大な敵を倒すには、ゲリラ戦が有効です。

たとえば1964年に勃発したヴェトナム戦争では、地の利を生かした攻撃でヴェトコンといわれるゲリラ兵が大国アメリカを悩ませ、ついには事実上の勝利を得ましたね。

アルマダの海戦にイングランドが採用した作戦は「火船作戦」です。

それは、海軍にあるボロボロの老朽船に可燃物を満載し、大陸に向かって吹く強風に乗せて突っ込ませ、乗組員が敵船に衝突する前に火を放ち、その後は海に飛び込んで避難する、という作戦でした。衝突した火船の火は敵の船に引火して大惨事になるだろう、と予想したのです。

『三国志』の赤壁の戦いを思わせますね。

この作戦を提案したのは、海軍将校ウィリアム・ウィンターだという説が有力です。受けたのは、フランシス・ドレイクおよびジョン・ホーキンズ。実行部隊は、ドレイクやホーキンズの海賊たちでした。

1588年7月28日、奇襲攻撃に成功せり

1588年4月、ついに無敵艦隊はリスボンを出航します。

1588年7月28日、スパイが事前にキャッチした情報通り、彼らはまず先に出発したパルマ公と合流するためカレー沖に向かい、そこで投錨しました。

ドーバー海峡では、強風が吹き海が荒れることがしばしばです。嵐によって三日月形の隊列を崩したくなかった無敵艦隊は、130隻あった船同士を太いロープで結びつけてもいました。

その夜、大風はイングランドから大陸に向かって吹いている、頃合いや良し、と見たドレイクは8隻の火船を船団に突っ込ませます。

突然の夜襲に慌てた無敵艦隊は、イカリを上げる余裕もなくつないでいた綱を切り、船を結び付けていたロープを外すことに手間取って、大混乱に陥りました。美しい三日月形の陣容は無残に壊れ、船は右往左往するばかりです。

翌29日、無敵艦隊はようやく隊列を整えることができましたが、今度はドレイク・海軍船団が小回りの利く中型・小型船で襲いかかり、鈍重なスペインのガレオン船を次々と沈めていきます。

窮地に陥った帆船団はカレー港に逃れたいところですが、あいにく今度は大陸方向からの逆風が吹いていて近寄れません。後ろにはイングランド海軍。

無敵を誇った艦隊は風に吹かれてスコットランド方面に流され、アイルランドを経由して本国に帰らざるを得ませんでした。

出航した時の艦隊は130隻。そのうちスペインに戻れたのは88隻でした。

スペインとの戦いは5回あった

無敵艦隊(アルマダ)の海戦を扱った書物は、華々しかったこの1588年の海戦を強調することが多く、そのため1度しか行われなかったかのような印象を残してしまいがちです。しかし、実際の海戦は1回では終わりませんでした。

イングランドとスペインの海戦は、1588年、1596年、1597年、1599年、1601年と合計5回行われたのです。そして、実際にイングランドが無敵艦隊と戦って完全勝利したのは、1588年の戦いが最初で最後でした。

では他の戦いはどうだったのかというと、スペインの艦隊はドーバー海峡を吹き荒れる強風に阻まれ、自滅していったというのが正しいようです。

ふむ。日本が元寇に襲われたときの神風を連想させますね。

戦争の終結

スペインとイングランドの戦いが終結したのは1604年のこと。その年に平和条約が結ばれました。

ジェームズ1世
戦争終結のきっかけは、その前年の1603年にエリザベス女王が崩御したことと、スコットランド国王ジェームズ6世が王位継承してイングランド王ジェームズ1世となり、スコットランド王を兼任したことでした。

スコットランドといえば、当時はカルヴァン派のプロテスタントが大勢を占めていたとはいえ、昔からカトリックの国でした。スペインがイングランドとの戦争を決意したきっかけも、スコットランド女王だったメアリー・ステュアート(カトリックの熱心な信者)が処刑されたことも一因でしたね。

そのスコットランド国王がイングランド国王を兼任するというわけですから、スペインとしては、イングランドが再びカトリックの国になることを期待したでことしょう。イングランドのカトリック教徒も大いに期待しました。

しかしジェームズ1世はカトリックを優遇することなく、プロテスタントとカトリックの融和を図ります。イングランドでは、期待を外されたカトリック教徒による反乱(ガイ・フォークスらによる火薬陰謀事件など)が起こりましたが、それはまた別の話。

To be continued


参考図書(下の本のタイトルをクリックするとAmazonで閲覧・注文できます):

**************************************************

ガレオン船



大航海時代前半に遠洋航海の基礎を築いたキャラックから発展した船形で、4〜5本の帆柱を備え、1列か2列の砲列があった。

スマートで吃水が浅いためより速度が出るといったメリットがあったが、安定性に欠け転覆もしやすくなるデメリットもあった。

スペインのガレオン船は3本マストを搭載し、船体は500〜600トンほど。この船は性能よりも派手さを意識していたので、船の性能は悪くスピードもあまり出なかった。

火薬陰謀事件

1605年11月5日に起きたテロ未遂事件。

この事件は、エリザベス女王時代に虐げられることの多かったカトリック教徒たちの一部が過激化し、即位したばかりのジェームズ1世と議員の爆殺を狙ったが、未然に防がれた事件。

首謀者はロバート・ケイツビーという男だが、議事堂地下で爆薬の点火役として潜んでいたガイ・フォークスが最初につかまったため、彼の方が歴史に名を遺した。

国王と議員の貴族たちがテロリズムから守られたということで、11月5日は「ガイ・フォークス・デイ(Guy Fawkes Day)」として祝日になっている。

なお、ちょいワルだったり野生がかったりしている男を「ガイ(guy)」と呼ぶことがあるが、これはガイ・フォークスからきているらしい。あまりに一般的になって、単に男というだけでもガイと呼ぶなあ。「タフガイ」なんていうのは死語か? 

"Hey, guys!"、、、なんて。

いや、今調べてみたら、もう男女関係なく複数人集まっていたら「奴ら」という意味合いで「ガイ(guy)」を使うとのこと。

フォロワー

このブログを検索

自己紹介

自分の写真
明治大学文学部を卒業した後、ラボ教育センターという、子どものことばと心を育てることを社是とした企業に30数年間、勤めてきました。 全国にラボ・パーティという「教室」があり、そこで英語の物語を使って子どものことば(英語と日本語)を育てる活動が毎週行われています。 私はそこで、社会人人生の半分を指導者・会員の募集、研修の実施、キャンプの運営や海外への引率などに、後半の人生を物語の制作や会員および指導者の雑誌や新聞をつくる仕事に従事してきました。 このブログでは、私が触れてきた物語を起点として、それが創られた歴史や文化などを改めて研究し、発表する場にしたいと思っています。

QooQ