第16話 海賊国家からの脱却ーイングランド海賊の終焉

2022/12/21

『ピーター・パン』 『宝島』 海賊 物語

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16世紀イングランドにおいて、エリザベス女王が最も心を砕いたのは、イングランドの富国強兵でした。羊毛や革製品、魚介類以外にさしたる産業もないイングランドで、国を富ませる方法としては貿易を活発にするか、ダークな方法ではあるが海賊に他国の船、とりわけスペイン船を襲って奪った財宝をお金に変えるか、の2択しかありませんでした。

貿易に頼るとなると、ポルトガルのように東方へ赴き、スパイスなどを仕入れて売りさばくことがまず考えられます。実際に議会により検討もされたようです。しかしこの方法は、当時の船の性能からいって長期にわたる航海が必要であり、また壊れやすい船体は難破する危険性も大いにありました。その割にもうけは少ない。

エリザベス女王が選択(あるいは固執)したのは海賊による富の強奪でした。貿易よりハイリスクではありますが、成功したときの収益は莫大です。超大国スペインを弱体化させるという一石二鳥の方法でもありました。

無敵艦隊と戦って勝利したイングランドは、後の繁栄への第一歩を踏み出したともいえますが、まだまだ弱小国に変わりなく、海賊(私掠船)に頼らざるを得なかったのが実態です。でもその後、徐々に力をつけていき、帝国主義に基づく「自由」貿易立国になっていきました。その一方で、海賊は「厄介者」となっていったのです。

今回のお話では、イングランド(イギリス)が海賊国家から貿易立国に変貌していく端緒までと、海賊が没落していく過程をお話します。

なお海賊の主な仕事には、掠奪のほかに黒人奴隷の密貿易もありましたが、これまで意図的に触れてきませんでした。奴隷貿易については、いずれお話しする予定のアメリカの黒人の音楽のときに、詳しく触れたいと思います。

ドレイク死す

無敵艦隊を退けても、まだスペインは強大でありイングランドは弱小国のままでした。エリザベス女王はさらにスペインへの追撃を強める目的で、ドレイクとホーキンズによるカリブ海のスペイン植民地襲撃を計画します。

1595年8月、ドレイクとホーキンズは、海賊船団30隻、乗組員1500人、兵士1000人の大船団を組んでカリブ海へ出航します。この時に組んだシンジケートでは出資者も多く資金も潤沢でした。

しかし、この航海は不幸続きだったのです。

出航の時を8月にしたのは、海が荒れる時期を避けられるという読みがあったのですが、予想は外れて嵐の連続に見舞われ、船内には熱病、赤痢、壊血病が蔓延して船員は次々と死んでいきました。ホーキンズもドレイクも例外ではありません。

1595年12月、ジョン・ホーキンズ病死。

1596年1月、幼なじみの後を追うようにフランシス・ドレイク病死。

彼らは、鉛の棺に入れられてカリブ海の水底に沈められました。

ふたりが亡くなっても、女王は海賊(私掠船)の庇護はやめず、彼らがイングランドに富をもたらす限り支援を続けました。

大英帝国への道

海賊に固執したエリザベス女王も1603年に崩御します。それ以降のイングランドは紆余曲折ありつつも北米に進出し、スペインの独占だったカリブ海に食い込み、力を伸ばしてきたオランダを排除する動きに出て、ついには地中海から大西洋への制海権を確保していきます。

それと反比例するように、海賊の存在が邪魔になっていきました。

北米進出

エリザベス女王の後を継いだジェームズ1世(スコットランド王ジェームズ6世)の治政の時、1606年に王立ヴァージニア会社が設立され、翌年には現在のヴァージニア州にジェームズタウンが建設されました

(私事ですが、ラボの国際交流でヴァージニア州にホームステイした時、現地に行ってみました。そこでは当時のままの生活が繰り広げられていました)。

また1620年には、迫害を受けた清教徒たち(ピルグリム・ファーザーズ)が現在のマサチューセッツ州に入植を開始しています。

ジャマイカ島の植民地化

かつてスペインはカリブ海を独占していましたが、めぼしい金銀はカリブ海の島々からはあまり採れないことがわかり、軸足を南米に移していました。そこで、カリブ海にはイングランドをはじめ、フランスやオランダなどがスペインに代わって進出してきていたのです。

1655年、イングランドはカリブ海最大の島ジャマイカ島を軍事領有し、スペインとマドリード条約を結びます(1670年)。

マドリード条約とは、イングランドが正式にジャマイカ島を植民地とすると取り決めた条約です。いっぽうでスペイン側が出した条件は、イングランドに海賊によるスペイン船への攻撃をやめさせることでした。

チャールズ2世
イングランド国王チャールズ2世としては、まだ使い道のある海賊を取り締まるのは惜しいと思っていましたが、ジャマイカの植民地化を優先します。

条約に従ってイングランドは海賊(私掠船員)ヘンリー・モーガンを逮捕しますが、その実、彼にナイトの称号を与え、ジャマイカ島の副総督にしたうえでバッカニア(カリブ海の海賊)を取り締まらせます。この話題は、第2話でお話しました(第2話参照)。

いっぽうこの取り締まりで逮捕、縛り首にされ、数年間さらし者になったキャプテン・キッドは、『宝島』のモティーフになったのでした(第3話参照)。

航海法制定

イングランドとしては、もうひとつ厄介な国がありました。オランダです。

17世紀中ごろのオランダは中継ぎ貿易を低輸送費で請け負い、大西洋貿易においても西インド諸島やニューアムステルダム(現在のニューヨーク)を拠点に他国を圧倒していたのです。これがイングランドの、大西洋貿易における目の上のタンコブでした。

そこでイングランド議会は、1651年に航海法(航海条例)を制定します。これは、海洋国家オランダをイングランドの貿易港から締め出すことを意図したものでした。

具体的にいうと、イングランド本国および植民地への貿易は、イングランドの船か輸入品の原産国の船舶に限定する、というもの。これはオランダにとってはかなりの痛手であり、後に英蘭戦争(第一次:1652-54、第ニ次:65-67、第三次:72-74)に発展します。

イギリスによる地中海・大西洋の制海権確保

かつてヨーロッパ大陸にも広大な領土をもっていたイングランドはその後領土を縮小し、メアリー女王の時代には唯一大陸に残っていた領土カレーをフランスに奪取されて、ブリテン島の一画だけを占める国になってしまいました。

しかし、エリザベス女王による海賊を活用した富国強兵策により徐々に力をつけ、宗教対立などのいざこざはありつつも、18世紀にはいると世界制覇にむけて躍進し始めます。

なお、イングランドは1707年5月1日にスコットランドを合邦し、グレート・ブリテン連合王国が誕生しました。これをふまえて、この項では1707年以降のできごとは、イングランドをイギリスと変えています。

この時代、アイルランドはどうしたのでしょう? じつはイギリスは1720年に「宣言法」を制定しています。この法律は、ブリテンの議会がアイルランドの議会に優越するというもの。つまり、アイルランドはイギリスにとっての植民地のような位置づけのままに置かれていたのでした。

・英蘭戦争

先にお話しましたように、イングランドは貿易強国オランダを排除するために「航海法」を制定してオランダに圧力をかけたため、英蘭戦争が三次にわたって行われました。

第二次のときにイングランドの艦隊が、テムズ川に侵入されたオランダ艦隊の焼き討ちにあうという敗北はありましたが、最終的にはオランダが領有していたニューネーデルランド植民地を占領し、以降は「ニューヨーク」植民地と呼ぶようになります。

ちなみにニューヨークは、海軍長官として北米征服を指揮したジェームズ(後のジェームズ2世)の爵位がヨーク公爵だったところからきています。ジェームズは時の国王チャールズ2世の弟にあたります。

オランダは、英蘭戦争の敗北によりその脅威が弱まりました。

・フランスとの戦い

オランダの次にイングランドにとっての脅威は、フランスです。

ヨーロッパ大陸において領土拡大を狙っていたフランスのルイ14世を包囲する形で始まったプファルツ継承戦争(1688-97年、アウグスブルク同盟戦争とも。第3話参照)にイギリスも参戦し、同盟国は勝利します。

スペイン継承戦争当時の兵士の様子
次に深刻な問題になったのが、スペインの継承問題。ハプスブルク家のカルロス2世に世継ぎがおらず、血縁関係のあるルイ14世の孫フィリップがフェリペ5世として後継者に指名されます。

当初はフィリップがスペインの王位についた場合、フィリップはフランスの王位継承権を放棄する約束でした。しかし、ルイ14世はフィリップの王位継承権を復活させてしまったため、フランスからスペインにわたる巨大な王国(ブルボン帝国)が出現する可能性が出てきてしまいました。

これを嫌ったイギリス国王ウィリアム3世は、神聖ローマ帝国レオポルト1世らとハーグ同盟を築いてルイを包囲し、スペイン継承戦争(1701-14)を開始します(第4話参照)。最終的にはフェリペ5世のスペイン王位は認めるが、フランスの王位継承権は放棄させることで決着しました。

またスペイン継承戦争の最中に、フランスと北米大陸の支配をめぐってアン王女戦争(1702-13)が勃発。これにもイギリスは勝利し、ユトレヒト条約(1713)で大きな権益を得ることになります。

ユトレヒト条約で獲得したイギリスの権益は次のようなものです。

  • 以下の権益を得ることにより、地中海の海上権とカリブ海の制海権を得る
    • 地中海と大西洋を結ぶ戦略的要衝であるジブラルタルを領有
    • バルセロナ沖合のメノルカ島を領有
    • フランスからニューファンドランド島とアカディア、ハドソン湾などを獲得
  • アフリカ黒人奴隷売買の参入権獲得→これまでスペインが独占しイングランドは密貿易状態だったが正式な貿易に
    • 三角貿易への正式参入
      • 三角貿易とは、西アフリカからカリブ海やアメリカ大陸に黒人奴隷を運びその売却金で砂糖や穀物、嗜好品等を購入し、ヨーロッパに運んで売却。そして自国の産物を西アフリカに運んで黒人奴隷と交換するという、濡れ手に粟の貿易のこと
    • スペインが要求した交換条件はスペインに奴隷売却代金の一部を支払うこと

イギリスの三角貿易の開始により、ブリストルとリバプールが奴隷貿易の拠点になり、発展していきます。

植民地としたジャマイカ島ではサトウキビ栽培を始め、超高級品だった砂糖の価格は劇的に下がり、一般大衆化しました。また砂糖の価格の下落はコーヒーやカカオ、茶の消費にも影響を及ぼしたのです。

邪魔者になった海賊の取り締まり

大西洋の制海権を確立し、北米にも支配を広げるようになったイギリスにとって、フランスやスペイン、オランダはもはや脅威ではありません。海賊によってこれらの国を弱体化させなくても、十分に国は富んでいきます。それどころか船と見れば見境なく襲撃する海賊は、邪魔にすらなりました。

そこでイギリスは1721年に「海賊取締法」を制定し、海賊を犯罪者として徹底的な排除を開始します。

To be continued


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明治大学文学部を卒業した後、ラボ教育センターという、子どものことばと心を育てることを社是とした企業に30数年間、勤めてきました。 全国にラボ・パーティという「教室」があり、そこで英語の物語を使って子どものことば(英語と日本語)を育てる活動が毎週行われています。 私はそこで、社会人人生の半分を指導者・会員の募集、研修の実施、キャンプの運営や海外への引率などに、後半の人生を物語の制作や会員および指導者の雑誌や新聞をつくる仕事に従事してきました。 このブログでは、私が触れてきた物語を起点として、それが創られた歴史や文化などを改めて研究し、発表する場にしたいと思っています。

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