第2話では、イングランドの海賊のなかでも超大物を8人ピックアップして、これから順次ご紹介していくことにし、まずはフランシス・ドレイクとヘンリー・モーガンについてお話ししました。
今回は、スティーブンソンが『宝島』を書くにあたってのモティーフになった、キャプテン・キッドことウィリアム・キッド(1645頃-1701)を取りあげたいと思います。
本題に入る前に、前話では何の注釈もなくカリブの海賊のことをバッカニアと称しました。今話ではまず、バッカニアについて説明したいと思います。
多国籍の海賊、バッカニア
1492年にコロンブスが「新大陸」を発見して以来、スペインの侵略者は原住民を使役し、婦女子をさらい、虐殺し、アステカ王国やインカ帝国を滅ぼすなどの悪逆を繰り返して金銀財宝を収奪。さらにアフリカ黒人の奴隷貿易や奴隷を使ったサトウキビ栽培などを通してスペインは超大国になりました。
ただ、カリブ海のエスパニョーラ島は、最初の頃こそ砂金が採れたのですがすぐに枯渇し、その他の島でもめぼしい収穫はなかったので、16世紀前半にはスペインはカリブ海の島々を事実上放置。エスパニョーラ島で行われていたサトウキビ栽培もブラジルで大々的に開始されたことから、16世紀後半にはスペインは軸足をカリブ海から中南米に移していました。
その間隙を縫ってカリブ海に侵入してきたのが、イングランド、フランス、オランダです。今でも、小アンティル諸島にイギリス領やフランス領、オランダ領があるのはその名残です。
さて、バッカニアという名称の由来ですが、エスパニョーラ島の西部に侵入してきたフランス人が、野生化している牛や豚の狩猟を行って燻製肉を製造し、それを行き交う船に売って生計を立ててきた、というところからきています。
燻製で使う木製の燻製用網のことを現地のことばでブーカンといいました。そのことから彼らはフランス語でブーカニエ、英語でバッカニアと呼ばれるようになりました。その後、彼らはより儲けの多い海賊行為をスペイン船に対して働くようになります。こうしたことから、カリブの海賊のことを「バッカニア」と呼ぶようになったということです。バッカニアの由来については、諸説あることをご了承ください。
『宝島』のモティーフになった悲劇の海賊、キャプテン・キッド
第2話でお話したヘンリー・モーガンは、私掠船団の司令官になり、海賊行為をしても罰せられず、ジャマイカ島の副総督にまで上り詰め、英雄としてイングランドの人びとの記憶に刻まれました。
そのモーガンとは対照的に、同じようにイングランドの国益に「貢献」しながら海賊として逮捕され、悲劇的な最期を遂げたのがキャプテン・キッドこと、ウィリアム・キッドです。宝島の地図は存在するか?
彼は自分が逮捕される前に略奪した財宝を隠しており、取り調べのなかでそのありかを白状していました。後の捜索でその場所からは財宝が出てきたのですが、キッドが確保した量からすると圧倒的に少ない。
まだほかにも隠し場所があるのではないかという噂が立って伝説になりました。
このキッドの宝を隠した地図がどこかにあるはずだということが、『宝島』のモティーフになっているのです。ロマンですねえ。
それでは、キャプテン・キッドとはどのような人物だったのでしょうか? (『ONE PEACE』のキャプテンキッドではないですよ(笑)
キッド、私掠船船長に
ヘンリー・モーガンの紹介のときにお話したように、1670年のマドリード条約からバッカニアへの取り締まりが厳しくなりましたが、1688年にプファルツ継承戦争(アウクスブルク同盟戦争)が始まると、その方針は撤回されます。
プファルツ継承戦争とは、フランスのルイ14世が神聖ローマ帝国の公領ファルツの割譲を要求してアウクスブルク同盟(バイエルン選帝侯、ブランデンブルク選帝侯、スペイン、オランダなど)と始めた戦争です。1689年にはイングランドも参戦しました。
これによりイングランドにとってフランスは敵国になり、フランスの弱体化を狙った私掠要員としてバッカニアが利用されるようになったというわけです。
そして、フランスに対する私掠船の船長として手を挙げたひとりがウィリアム・キッドだったのです。
キッドの成果としては、1690年にカリブ海でフランスの私掠船2隻を拿捕しています。
小アンティル諸島のアンティグア島で船の修理をしているときに、航海士のロバート・クリフォードが船を乗っ取り逃走、海賊に転じてしまうという事件がありました。裏切られたキッドは悔しがりましたが、その後も私掠の立場を崩さず、フランス船への攻撃を続けます。
その頃、インド洋ではマドリード条約によって締め付けられていたバッカニアたちが、ムガール帝国の商船やイングランド、フランス、オランダの東インド会社の船を襲っていました。キッドは、イングランド政界の有力者ベロモント伯から要請を受け、私掠船の船長として取り締まりを命じられたのです。
不幸がつきまとった私掠活動
しかし、この仕事には不幸がつきまとっていました。1696年2月にテムズ川河畔のデットフォードから出航したキッドのアドヴェンチャー号は、テムズ川河口でイングランド艦隊に停船を命じられ、船員の半数近くを海軍に強制徴募されてしまいます。
ようやく大海に出ても、フランス船も海賊船も見つけることはできませんでした。インド洋に向かい、海賊の拠点となっているコモロ群島に到達しても敵船と遭遇しないまま、またたくまに10か月が過ぎてしまったのです。
この私掠活動には条件が付けられていました。それは私掠の獲得がなければ報酬もないということです。このまま何の成果もないとなると、過酷な条件下で働いたあげく無報酬、ということになる。当然、船員の不満は公然と噴出してきます。
オレは海賊になる
追い詰められたキッドはある決意をします。海賊になる、と。
ただしイングランドを裏切ってはいけない。襲うのはアラブの商船団と思い定め、多く行き来する紅海に向かいます。そこには、私掠の範疇は逸脱するが異教徒の船を襲うのであれば許されるだろう、という読みがありました。しかし、ここでも運命はキッドにそっぽを向けます。
頻繁に海賊に襲われることに業を煮やしたアラブ船団は、イングランドやオランダ、フランスの艦船を護衛として雇っていたのです。アドヴェンチャー号は現れたアラブの船に集中砲火を浴びせましたが、すぐにイングランドの艦船に反撃され、撤退を余儀なくされました。
この失敗を機にタガが外れたのか、キッドは海賊行為に身を投じ掠奪を繰り返します。ただ、キッドとしては自分の正当性を信じて疑いませんでした。つまり、自分はあくまで私掠および許される範囲の異教徒への攻撃を行っているのだ、という信念でした。
キッド逮捕、そして死刑
ところが1699年4月にカリブ海のアンギラ島に帰還したとき、衝撃の事実を知ります。国王の布告により、キッドは海賊として逮捕命令が出ていたのです。
1699年1月に、アルメニア商船クェダ・マーチャント号を襲ったのですが、この船の船長がイングランド人でした。これが逮捕命令の直接の要因ですが、そもそも、その1年半前の1697年9月にフランスとの戦争は終結していたのです。それにともなってキッドの私掠状も効力を失っていました。それでも自らの潔白を信じていたキッドは北アメリカのイングランド植民地ボストンに赴き、総督のベロモント伯に面会を申し込みます。その時、キッド逮捕。
そして裁判の結果、航海中のいざこざで船員を殺害したことを直接の罪状として死刑を宣告されました。しかも、身体にはタールを塗られ、見せしめとして数年間さらされ続けたといいます。
To be continued
●参考図書(下の本のタイトルをクリックするとAmazonで閲覧・注文できます):
0 件のコメント:
コメントを投稿
お読みいただき、ありがとうございます。ぜひコメントを残してください。感想や訂正、ご意見なども書いていただけると励みになります