第4話 イングランドの超大物海賊 その3ーウッズ・ロジャーズの容赦ないバッカニアとの戦い

2022/10/03

『ピーター・パン』 『宝島』 海賊 物語

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前話では、『宝島』のモティーフになったキャプテン・キッドについてお話しました。

第2話でお話したヘンリー・モーガンも第3話のキャプテン・キッドもどちらも同じように海賊行為に手を染めたのに、一方は英雄と讃えられ他方は悲惨な最期を遂げました。

なぜでしょう。ふしぎに思いませんか?

それはひとえに、時代のせいかもしれません。

モーガンは讃えられ、キッドはさらされる

ヘンリー・モーガンは1635年にイングランド・ウェールズに生まれ、1668年から私掠船団の司令官としてバッカニアとともに活動を開始します。そして1668年に没しました。

イングランドにジャマイカ島などの領有権を認め、代わりにイングランドはスペイン領を荒らさないとしたマドリード条約の締結は1670年でした。

一方、ウィリアム・キッドは、1645年頃に生まれ、1701年に処刑されます。

キッドが私掠状を携えて活動を開始した年は、参考にしている『海賊の世界史』には書かれていませんが、1689年あたりだろうと思われます。

両者の亡くなった年を比較してみれば、30年くらいの時間がたっているのですね。この間に世界はどのように変化したのでしょう。

封建体制から主権国家体制へ

連載の第1話でお話しましたように、17世紀にはイングランドは海軍を増強するために、プレス・ギャングが浮浪者に脅しをかけて強制徴募する例が急増しました。じつはこの時代、各国は主権国家体制に移行していった時期なのです。

それまでは国王は神から王権を与えられているとされていましたが(王権神授説)、主権国家体制では「社会契約」によって人々は権利を国王(あるいは議会)に預ける代わりに、国王(議会)は義務と権利として国民を守るものである、という考えられるようになりました。

もちろん民主主義のように、国民を主権者と考えるのではなく、権力を国王や議会に集中させる方便ではありました。封建体制の下では兵力は貴族や傭兵が握っていましたが、国王(議会)にその権力を集中させることができる体制になってきたのです。そのため国王は国軍を設立し、その増強に努めました。

見せしめにされたキャプテン・キッド

国軍が強力になってくると、海賊を私掠船に仕立てて相手の国を弱体化させる戦略はあまり必要ではなくなり、海賊の需要は徐々に減っていきます。

また、イングランドは1668年のマドリード条約によりジャマイカ島などを領有し、フランスも1697年のライスワイク条約により、エスパニョーラ島の西側3分の1の領有を認められました。また両国は、カリブ海や北アメリカの植民地で貿易やプランテーション事業を本格化します。

こうなってくると、無差別に掠奪を繰り返す海賊は邪魔者になってきます。そこで海賊を容認し、事実上野放しにしてきたそれまで方針を転換し、17世紀後半からは取り締まりを厳しくしていきました。

そして1699年、イングランドは海賊法を制定。これは海賊行為に対する裁判を植民地の法律で裁き、処罰することを認めるというものでした。

1701年に処刑されたキッドは、この世界情勢の変化を世界に明確に知らしめるため、見せしめとしてさらされる必要があったのです。

いざこざのため船員を殺したことが死刑に相当するとしても、縛り首にされたキッドを何年もさらし者にするのは、あまりに過剰ではないかと思うのですが、どうでしょ?

ウッズ・ロジャーズ(1679頃-1733)「私掠と海賊を一緒にするな!」

1701年、ヨーロッパは再び戦火にまみれます。スペイン継承戦争です。

1700年11月にスペイン王カルロス2世が逝去し、フランスのルイ14世の孫でスペイン王室の血をひくフィリップが、スペイン王を継承してフェリペ5世を名乗ります。

それに対し、スペインの権力が拡大することを恐れたイングランド、オーストリア、オランダが、スペインに対して戦争を始めたのです。

イギリス(1707年にイングランドはスコットランドと統合。以下イギリスとする)は戦争を始めるにあたり、再々度私掠活動を認めました。このイギリスの方針に則り、1708年8月、ウッズ・ロジャーズ(1679頃-1732)は私掠活動を開始します。

ロジャースの私掠活動――ベン・ガンのモデル登場?!

息子からニュープロヴィデンス島の地図を受け取るロジャーズ

ロジャーズは募った投資資金を元手に、デューク号とダッチェス号の2隻でブリストルを出航し、目覚ましい「戦果」を獲得していきます。

カナリア諸島沖でスペイン商船を拿捕した後、南米の最南端ホーン岬をまわって太平洋へ、ペルー沖でスペイン船を捕獲、グアム島沖でスペインのガリオン船と戦闘になり、負傷するも捕獲に成功、さらにインド洋、喜望峰を回って1711年11月に帰還しました。この快挙により、ロジャーズも英雄として讃えられました。

またロジャーズの船団は、チリ沖のフアン・フェルナンデス諸島で、スコットランド人アレキサンダー・セルカークという人物を救助しています。彼は船長ともめ事を起こし、島に置き去りにされていたのでした。

彼は救助されるまでの4年4か月間、独りで野生の動植物を食べ住居も衣服も自分で作るという生活をしていました。この生活はロジャーズが帰国後に出版した『世界巡行記』に記されていますが、これがダニエル・デフォーの創作意欲を刺激して『ロビンソン・クルーソー』を誕生させたといいます。

『宝島』でも、海賊のフリント船長​に置き去りにされたベン・ガンが登場しますね。『宝島』は初版1883年の出版ですが、スティーヴンスンがこの物語で設定した時代はまさに16~17世紀だといわれています。そうするとロジャーズのこの著述は、さまざまな人に影響を与え、海賊のイメージを形作ったのかもしれませんね。

ロジャーズの海賊に対する手厳しいことば

さて、ロジャーズは私掠活動として、スペインに対して略奪行為を働いて「戦果」をあげました。これは、私から見ると海賊行為そのもののように見えるのですが、ロジャーズは私掠と海賊を峻別し、バッカニアを「人類の敵」として容赦のない戦いを挑んでいきます。彼はバッカニアに対して、次のような手厳しいことばを残しました。

「彼ら(バッカニア)は何の規制も受けない生活をしていて、なにかが手に入ると、すぐにそれを使い果たすのである。お金やお酒が手に入ると、無一文になるまで賭け事をやり、酒もなくなるまで飲み続けるという具合である。そして、打ったり飲んだりしている間は、船長とか水夫といった身分の区別もなくなる。というのは、上級船員の権限は多数の仲間から、ごく一時的に与えられているだけで、気紛れに、いつでも、同じ仲間から地位を剥奪されたり、交替をさせられたりするのである。これでは、まともな仕事など、できるわけがない。また、バッカニアは、自分の国元では勇士とみなされることが多いにもかかわらず、私が聞き知った限りでは、彼らが真の勇気と思慮とを発揮した例は皆無に等しいのである」

(ウッズ・ロジャーズ『世界巡行記』平野敬一・小林真紀子訳)


ロジャーズの部下がグアヤキルの町を襲撃。
スペイン人女性を襲って宝石を出させようとしている場面

Page URL : https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Guay.jpg




To be continued


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明治大学文学部を卒業した後、ラボ教育センターという、子どものことばと心を育てることを社是とした企業に30数年間、勤めてきました。 全国にラボ・パーティという「教室」があり、そこで英語の物語を使って子どものことば(英語と日本語)を育てる活動が毎週行われています。 私はそこで、社会人人生の半分を指導者・会員の募集、研修の実施、キャンプの運営や海外への引率などに、後半の人生を物語の制作や会員および指導者の雑誌や新聞をつくる仕事に従事してきました。 このブログでは、私が触れてきた物語を起点として、それが創られた歴史や文化などを改めて研究し、発表する場にしたいと思っています。

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