第10話 エリザベス女王が「海賊国家」を目指したわけ(その1)ー女王の祖父ヘンリー7世は分家の出

2022/10/16

『ピーター・パン』 『宝島』 海賊 物語

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今でこそイギリスといえば先進国のひとつで、かつては七つの海を支配した大英帝国でした。そのため、イギリスといえば昔から豊かで、きらびやかな宮殿、アフタヌーンティに代表されるお茶やシェイクスピア劇などのすぐれた文化、ロールスロイスやミニクーパーなどの憧れの文明をもった国というイメージが強いのではないでしょうか。

しかし16世紀、エリザベス女王が即位したころは、スペインやフランス、ポルトガルなど、列強に囲まれた二流の貧乏国にすぎませんでした。海外に莫大な借金があり、超大国スペインからは宗教問題も絡んでにらまれ、スコットランドとは王位継承権問題にまつわる陰謀から、へたをすると女王自身が暗殺されてもおかしくない状況でした。

また、当時のイングランドの人口は400~450万人でした。それに対してスペインの人口は1000万人、フランスは1600万人です。
もしもスペインやフランスから戦争を仕掛けられたら、とても太刀打ちできるものではありません。

このような状況を抜け出すには、富国強兵を図って、イングランドを押しも押されもしない強国にする必要があります。そこで女王がとった驚愕の戦略が、イングランドを「海賊国家」にするということでした。

女王をこのような立場に追い込んだ原因を探るには、まず彼女の祖父にあたるヘンリー7世のことから、お話ししなければならないと思います。

そこで今回のお話のお話のお題は、ヘンリー7世についてです。
どうぞお付き合いください。

分家の大将、天下をとる

イギリスは日本と同じように島国で、似ているところもあるといわれますが、決定的に違うところもあるようにも思えます。

侵攻し侵攻されたイングランドの歴史

日本が外国と戦った歴史は、日清戦争や日露戦争以前は元寇と朝鮮出兵くらいなもので、戦乱の世はあってもほとんどが日本のなかだけの内戦でした。

ところがイギリスは大陸と近かったからか、ビーカー人と呼ばれる青銅器文明をもった民族の侵入、ケルト民族による支配、アングロ=サクソンの反逆と統治、ヴァイキングの掠奪、ヴァイキングの仲間であるノルマンによる征服(ノルマン・コンクェスト)、フランスとのいざこざ、スペインとの戦いなど、外国との戦争が絶えず、支配する民族もさまざまに入れ替わってきました。ブリテン島内でもスコットランドやウェールズとの戦いが繰り返され、また海をまたいでアイルランドとの戦いも行われた歴史でした。

ランカスター王朝とヨーク王朝

左=リチャード2世、右=ヘンリー4世
後に英仏百年戦争(1337-1475)と呼ばれるイングランドとフランスとの大戦争の間に、イングランド内部でも内紛があり、1399年にはブランタジネット王朝のリチャード2世が廃位され、ランカスター公爵家のヘンリーがヘンリー4世として即位しました。

ランカスター王朝の誕生です。

百年戦争は1475年のビキニ―条約で正式に終結しますが、1453年にはフランス軍がイングランド軍をボルドーで破っており、これがイングランド敗戦の決定打となりました。

時のイングランド王ヘンリー6世は、ボルドーでの敗退の前あたりから精神に異常をきたし、執務が不可能になります。そこで護国卿として台頭したのがヨーク公リチャードでした。

左=ヘンリー6世、右=エドワード4世
そのリチャードは1460年に反旗を翻して王家に戦いを挑み、リチャード自身は戦死しますが長男エドワードが引き継いでヘンリー6世を捕え、エドワード4世として即位します。

ここにヨーク王朝が誕生しました。

エドワード4世が自堕落な生活で亡くなったあと、さまざまな権力闘争を経てグロウスター公リチャードがリチャード3世として即位し、ヨーク王家を継承します。

リチャード3世
なおこの人は、シェイクスピアが『リチャード3世』のなかで醜怪な悪役として描いた人です。リチャード3世はレスタの修道院に埋葬されましたが、16世紀半ばに強行された修道院解散に伴って掘り返され、行方不明となりました。彼のほんとうの姿かたちがどのようであったかは謎のままになっていたのです。

ところが2012年に、彼の遺骨がレスタ市の中心部で発見されました。遺骨をもとに復元したところ、背が高く温厚そうな顔つきであったことが判明したとのことです。

なかなか、ヘンリー7世に行きつきませんね。ごめんなさい。

このヨーク王家もゴタゴタが絶えませんでした。そんななか、ランカスター家の分家筋にあたるリッチモンド伯爵ヘンリー・テューダーが、亡命先のブルターニュから王位奪還をめざして一族の拠点であるウェールズに上陸したのです。

バラ戦争からテューダー王朝へ

ヘンリー7世
リッチモンド伯の軍勢は5000、対するリチャード3世の軍勢は1万。
両者の闘いは、最終的にリチャード3世がボズワースで身内の裏切りにあって戦死し、リッチモンド伯軍の勝利に終わりました。
1485年8月22日のことでした。

ヘンリー・テューダーはこの勝利を受けて、ヘンリー7世(在位1485-1509)としてイングランド王に即位します。テューダー王朝が始まりました(ああ、やっときた)。

最終的にランカスター家の勝利に終わったヨーク家とランカスター家の戦いは、後に「バラ戦争(1455-85)」と呼ばれました。それはヨーク家の紋章が白バラ、ランカスター家の紋章が赤バラ、というところから来ています。

なんだか『不思議の国のアリス』の、女王にばれないようにと兵隊が白バラを赤く塗っているシーンが思い浮かびますね。バラ戦争がこのシーンのもとになっているかどうかは知りませんが。

ヘンリー7世の悩み

ヘンリー7世の出自は、ランカスター家の分家だと書きました。つまり、王位継承者としてはちょっと弱いのですね。もし他の「正統な」王家の末裔が、「我こそほんとうの王位継承者」と名乗り出られると、ランカスター家の傍系に過ぎない彼は、あっという間に転覆させられて刑場で首をさらすことになりかねません。

そこで自分の王位継承者としての正統性を証明し、権威をゆるぎないものにするため、ヘンリー7世はさまざまな手を打ちました。
  1. 当時、王家以上の影響力をもっていた議会に王位の承認をとりつけた
  2. ヨーク王朝をたてた亡きエドワード4世の長女エリザベスと結婚し、自分の権威付けとヨーク家との和解を演出した
  3. 英仏百年戦争および内戦によって疲弊し弱体化したイングランドを隙あらば侵攻しようとするスコットランドやアイルランドに対して、手を打った。具体的には、アイルランドに対してはポイニングズ法を適用し、総督がアイルランド議会を私物化して権力基盤を築くことを防ぎ、スコットランドに対しては自分の長女マーガレットをスコットランド王ジェームズ4世に嫁がせた
  4. テューダー王家をしのぐ有力貴族はあまたいたので、彼ら同士の結婚を制限してさらに力をもつことを防ぎ、国王評議会のメンバーに引き入れて国の治安、外交、軍事について話し合わせた
ヘンリ―7世は、このように有能な実務家として振舞い、イングランドを安泰に導いたのです。しかしこのなかの、スコットランド王に長女マーガレットを嫁がせたことは、後にエリザベス女王を悩ませることになります。

To be continued


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明治大学文学部を卒業した後、ラボ教育センターという、子どものことばと心を育てることを社是とした企業に30数年間、勤めてきました。 全国にラボ・パーティという「教室」があり、そこで英語の物語を使って子どものことば(英語と日本語)を育てる活動が毎週行われています。 私はそこで、社会人人生の半分を指導者・会員の募集、研修の実施、キャンプの運営や海外への引率などに、後半の人生を物語の制作や会員および指導者の雑誌や新聞をつくる仕事に従事してきました。 このブログでは、私が触れてきた物語を起点として、それが創られた歴史や文化などを改めて研究し、発表する場にしたいと思っています。

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