第17話 紅茶の国イギリスになるまで(その1)ー東インド貿易への進出

2022/12/28

『ガンピーさんのふなあそび』 『ピーター・パン』 『宝島』 海賊 紅茶 物語

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『ガンピーさんのふなあそび』
ラボ・ライブラリー版『ガンピーさんのふなあそび』(ラボ教育センター刊)では、挿入歌が収録されています。その一節に 

♪~お茶の時間が気になるけれど オー、ミスター・ガンピー、行こうよ海まで♪

というのがありますね。

イギリスの人のお茶好きはよく聞きますし、日常不可欠なもののようだというのは、日本人である私の想像を超えるものがあります。

そこでイギリス人がなぜそれほどお茶好きになったのか探ってみましたので、少しお話したいと思います。これにはまた、海賊が絡んでいるということも、前話からの続きとしてはつながりがいいのかなと思っています。

イギリス人の一般大衆にもお茶が受け入れられていく歴史には、貿易商人という名の海賊の活躍がありました。

はじめは高価過ぎて王侯貴族しか手に入れられなかったお茶が、彼ら(海賊)の活躍により東洋の珍しい物とともに安価に輸入されるようになり、徐々に一般にも普及していった歴史があります。

一気にお茶の話に行く前に、まず、1600年創業の東インド会社設立の模様からお話したいと思います。

貿易で一攫千金を狙った海賊たち

これまでお話してきましたように、エリザベス女王は、海賊による富の収奪によってイングランドを富ませること、に執着していました。

いっぽう海賊は、当時超高級品であったスパイスに目を付け、直接インド(ネシア)と貿易できるようになれば大きなもうけになると踏み、女王に再三再四にわたって東インドへの貿易を進言していたのです。

ここで皆さんには、改めて思い出していただきたいことがあります。
海賊には2種類あったということです。

フランシス・ドレイクやジョン・ホーキンズ、ヘンリー・モーガンらは上流階級の人間であり、女王陛下の海賊(Sea Dogs)として、スペイン船などを襲っていました。これは王室および議会にとっては、軍事作戦の一環として認識されていたのです。

一方、その日暮らしの下層民が、一か八かの一攫千金を狙って海賊になった例もたくさんありました。これらの人々は明確に犯罪者とみなされ、捕まれば極刑が待っていました。

当時のイングランド(イギリス)の人びとは両者を全く別のものと考えていましたが、はた目から現代の視点で見ると、やっていることに変わりはないように思えます。ここでも第0話でとりあげたアウグスティヌスの『神の国』のなかの逸話が思い出されますね(第0話参照)。

貿易立国への機運

16世紀末、イングランドでは自国を貿易立国にすべきだ、という機運が盛りあがってきていました。

当時、女王の政策顧問で占星術師のジョン・ディーという人が、女王に海外雄飛する会社を設立するべきだと進言していましたし、聖職者で地理学者のリチャード・ハクルートという人が『イギリス人の主な航海、船団および発見』という本を書いて、海外への航海熱をあおっていました。

ここで説かれている貿易とは、インドやインドネシア方面で産出するスパイスやインド綿などの多くの珍しい産物を輸入し、売りさばくことです。特にスパイスは超高級品であり、かつ富裕層にとっては必要不可欠なものになっていたので、インドから直接スパイスを手に入れられれば、ぼろもうけ間違いなしでした。

なぜこの時代、富裕層の人々はスパイスを渇望したのでしょう?

一節によれば、食肉の保存のためとか腐った肉の劣悪な味をごまかすため、とかいわれています。しかし、この説は歴史家のジャン=ルイ・フランドン(1931-2001)によって明確に否定されています。

そもそも、富裕層は常に新鮮な肉を食べていたので、腐肉対策など必要ありません。
長期間の航海に出れば肉などは腐って食中毒などの病気の原因になったりするので、それを防ぐためでは? という考えもよぎりますが、スパイスは信じられないほど高価なので、貧乏人に与えられるようなしろものではありません。

では富裕層はなぜスパイスを喉から手が出るほど欲しがったのかというと、これが万能薬、それどころか不老不死の薬、とみなされたからでした。解熱、下痢止め、精神安定剤、傷薬となんでもござれです。

しかしスパイス貿易は、バスコ・ダ・ガマの東インド航路発見以来、ポルトガルによって独占されていました。この貿易に他国が浸食しないようポルトガルは何十もの防御策を講じたうえで、多くの仲買人を仲介させて、富裕層しか手を出せないほどに末端価格をつり上げていたのです。

東インドへの航海は何か月もかかる上に、脆弱な当時の船では難破する確率も高くハイリスクなため、実際に東インドに行きたいという国は少なかったということもあります。

そのなかで、この冒険に乗り出したいと考えた国が二か国あったのです。それがイングランドと新興の貿易強国オランダでした。

イングランドは、女王が貿易にあまり乗り気ではなかったため、先に進むことが困難です。

先手をとったのはオランダでした。なんと、ポルトガルの東インドへの航路図を手に入れたのです。暗闇の中に一筋の光を見つけたようなもので、まだ未知の危険がいっぱいではありましたが、さっそくオランダは行動を開始します。

1595年4月、第一次貿易船団が4隻でオランダを発ちます。この航海は厳しいものでした。乗組員は240人いましたが、そのうち153人が熱病、壊血病などで死亡し帰国できたのは87人、船は3隻に減って、2年4か月の長旅となりました。

ところが、そんなことでへこたれるオランダではありません。1599年には第二次貿易船団が出発します。この時にオランダにもたらした利益は莫大でした。なんと利益率400%。ポルトガルによる値段のつり上げもないので、かなり低い価格で手に入れられるようになり、スパイスは国民的大ブームになりました。

当然、イングランドは大ショックを受けます。俄然、東インド会社設立の機運が海賊側から沸き起こりました。

貿易立国への船出


女王の心はあくまでも海賊による富国強兵にありましたが、貿易立国への機運も鑑みて、貿易会社にも目を配るようになります。

レヴァント会社

イングランドに貿易会社といわれるものは、15世紀初頭、ヘンリー4世の昔からあったことはありました。数はたくさんあったのですが、大したもうけもなく消滅していく会社も多かったのです。

そのなかでも、ヴェネチア会社とオスマン帝国に貿易特許を与えられたトルコ会社は比較的成績がよく、女王は特許状を与えて両社を合併させ、1592年にレヴァント会社を設立させます。

その拠点は、地中海でのオスマン帝国の都コンスタンチノープル(現イスタンブール)に置きました。

貿易品としては、地中海東部のワイン、オリーブオイル、干しブドウ、絹製品、アラブ馬、トルコ絨毯といったもので、スパイスもペルシア湾経由で仕入れていました。

このレヴァント会社を設立するにあたって、大きな資金源となったのが、フランシス・ドレイクによる海賊マネーでしたね(第14話参照)。

東インド会社設立

レヴァント会社もそれなりに収益は上がっていたのですが、限界もありました。

スパイス貿易においてヴェネチアの商人を仲介すると価格が高騰しがちです。また貿易の範囲としては地中海沿岸に限られています。少しでも価格を抑えさらに飛躍するためには、喜望峰周りの航路を開拓してインド(ネシア)と直接取引することが不可欠でした。

サー・トーマス・スミス
そこで、1600年12月31日に東インド会社を設立し、喜望峰をまわる航路を開拓しインド(ネシア)との直接貿易を開始しました。初代会長は、複数の貿易会社を所有する大金持ちで海賊のトーマス・スミスです。

しばらくは東インド会社とレヴァント会社はどちらも並行して貿易をしていましたが、やがて、東インド会社に一本化されていきます。

会社といっても普通にイメージされるような、どこかに本社ビルがあったりするようなものではありません。東インド会社の正式名称は「東インドとの貿易を行うロンドンの商人たちのガバナー(代表)とカンパニー(組合)」といい、そうした人間の集まりを「会社」と呼んだのです。会議などはトーマス・スミスの応接間で行われたりしました。

また経営者も使われる船団も海賊でしたので、まっとうな貿易以外にも船を襲って富を収奪する行動は忘れません。

後年には、イギリス政府を代行する組織として、インドに対して警察権や行政権を執行したりするようになりましたが、設立当初は、単にスパイスなどの貿易で大もうけしたいというだけの会社だったのです。

東インド会社の変遷

主にスパイスの輸入を狙った東インド会社ですが、他のものもたくさん貿易していました。

スパイス以外の品物としては、18世紀に至るまで、コーヒー、緑茶、紅茶、綿織物などを取引しました。これらの品物のそれぞれに物語があるのですが、このあと当ブログでは、コーヒーとお茶に絞ってお話していきます。

19世紀にはいると、東インド会社は中国茶を輸入するために、その代金としてインド産のアヘンをあの手この手で中国(清)に売りつけるようになりました。そのためにアヘン戦争が起こったのは、皆さんご存じでしょう。

また、お茶に高い関税をかけてアメリカの植民地に売りつけようとしたためボストン茶会事件が起こって北アメリカが独立したり、インドの支配権をめぐってフランス東インド会社との間にプラッシーの戦い(7年戦争)が起こるなど、19世紀に入ってからのイギリス東インド会社は、大揺れに揺れました。

フランス東インド会社との戦いではイギリス勢が勝利しました。そしてイギリス政府は1858年にインド統治改善法を制定して東インド会社を解散し、その後はイギリスの直接統治下に置くことになるのです。

To be continued


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レパント(Lepanto)とレヴァント(Levant)

『世界史をつくった海賊』(竹田いさみ著)より

レヴァント会社と聞いて「レパントの海戦」を連想した方はいませんか?

レパントの海戦は、1571年にスペインとカトリック同盟国がオスマン帝国とが戦った海戦で、ギリシアの港町の名前です。この戦いでスペインは地中海の覇権を掌握しました。

一方、レヴァントは、地中海東部の名称です。拠点となる都市はトリポリやアレッポになります。

エリザベス女王が特許状を与えた貿易会社

エリザベス女王が貿易の特許状を下付した貿易会社は東インド会社、レヴァント会社以外にも以下に列記するように、たくさんありました。

モスクワ会社、トルコ会社、ヴェネチア会社、スペイン会社、アンダルシア会社、ヴァージニア会社、バミューダ会社、ニューイングランド会社、ノースウェスト・パッセージ会社、プロヴィデンス会社、など。

地中海から大西洋、北米にかけてたくさんの会社に特許状を下付したのですが、東インド会社以外に歴史に残るような業績を残したのは、レヴァント会社だけでした。

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明治大学文学部を卒業した後、ラボ教育センターという、子どものことばと心を育てることを社是とした企業に30数年間、勤めてきました。 全国にラボ・パーティという「教室」があり、そこで英語の物語を使って子どものことば(英語と日本語)を育てる活動が毎週行われています。 私はそこで、社会人人生の半分を指導者・会員の募集、研修の実施、キャンプの運営や海外への引率などに、後半の人生を物語の制作や会員および指導者の雑誌や新聞をつくる仕事に従事してきました。 このブログでは、私が触れてきた物語を起点として、それが創られた歴史や文化などを改めて研究し、発表する場にしたいと思っています。

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