第18話 紅茶の国イギリスになるまで(その2)ーコーヒーハウスの興隆

2023/01/03

『ガンピーさんのふなあそび』 『ピーター・パン』 『宝島』 海賊 紅茶 物語

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イギリスって、紅茶の国じゃないの? と思われた方はいますか? じつは、紅茶がイギリス国内に浸透する前に、コーヒーが盛んに飲まれた時代があったのです。

精神を覚醒させるコーヒーは、貿易商人(海賊)や遠洋航海する船長といった人たちをはじめ、貴族、牧師、新聞記者などの人びとがミーティングや情報交換をする際に愛飲され、場を提供するコーヒーハウスがロンドンやロンドン周辺に林立する時代がありました。

なかでもロイズ・コーヒーハウスは他を圧倒し、ひと時代を築きます。一度、消滅の危機を迎えますが、やがて盛り返すと同時にコーヒーハウスを脱し、世界的に有名なロイズ保険市場に発展していきました。

今回のお話では、コーヒーの起源や効用に少し寄り道した後、ロイズ・コーヒーハウスがなぜ他のコーヒーハウスを圧倒したのかといった話を中心に、当時のコーヒーハウスの様子やその後をお話します。 

世界初のコーヒー、モカ

15世紀末から、アラビア半島では南部(現イエメン)で採れたコーヒー豆がモカ港に運ばれ、そこからインド・ムガール帝国の都スーラトやペルシャへ輸出される、という貿易が行われていました。コーヒーの貿易港にはモカ港の他にアデン港もありましたが、モカがブランド名となり、現在のモカ・コーヒーにつながっています。

コーヒーの語源は、モカの原産地エチオピアの地名「コファ」に「ワイン」を加えた造語だそうです。

意外なのですが、ワインは今でこそ食前酒として食欲を増進する飲み物として嗜(たしな)まれますが、昔は「食欲を抑える、ひいては欲望を抑える飲み物」とみなされていました。原産地の名前に「ワイン」を加えて造語されたコーヒーは、眠気をはじめとする欲望を抑える効果を期待された薬だったのです。

15世紀初頭にはスーフィー教団(イエメン)の夜間の修行を補助する飲料として使われた、16世紀にはカイロのアズハル学院で飲用された、といった記述が残っています。

ここでひとつ、こぼれ話として、コーヒーにまつわる伝説を。

ヤギ飼いのカルディが、新しい牧草地にヤギを連れて行ったところ、その夜はヤギが昂奮して少しも眠ろうとしない。ふしぎに思って調べると、ヤギはコーヒーの実を食べていたということが判明した、というお話です。

「ははあ、カルディ(コーヒーや海外の食料品などを扱っている店)という名のお店があるが、ここからとったのか」とひとり納得しました。この話を知るまで、なぜこの店が店名にカルディとつけたのかを、私は知らなかったのです。

ちなみにこの伝説は、ラルフ・ハトックスという人がアラビア語文献を渉猟した結果、「コーヒーについて書いているアラビア人で、この伝説について触れている人はいない」として、「大かたヨーロッパ人の思いつきだろう」と断じています。まあ、目くじらを立てるほどのことではないようにも思いますが……。

イギリスのコーヒー貿易

イングランドにコーヒーが本格的な盛り上がりを見せる前まで、スパイスに次いでコーヒーもまた医薬品として珍重され、高価なものでした。

この頃、コーヒー貿易を取り仕切っていたのはヴェネチアの商人たちでした。貿易相手のオスマン帝国はヨーロッパ諸国とは敵対関係にありましたが、ヴァネチアの商人とは貿易の取引関係を築いていました。イングランドはこのヴェネチアの商人たちを介してレヴァント会社が輸入していたのです(レヴァント会社については第17話を参照)。

ん? ヴェネチアの商人? つまりベニスの商人ですね。シェイクスピアが『ベニスの商人』というお芝居を書いたのは、このあたりに何かあったのでしょうか?

……閑話休題。

東インド会社のコーヒー貿易拠点

イングランドは東インド会社を通じての、コーヒー直接貿易を思いつきます。

スパイスに次ぐ薬効が認められるとされたコーヒーなので細々とは輸入していましたが、ヴェネチアの商人を経由しての貿易では、とても高価なものにとどまっていました。

東インド会社への航路の途中、航海の中継点としてソコトラ島に寄港したときにモカ港でのコーヒーの積み出しの盛況さを見て、この近くのアデンに拠点を設ければ直接貿易が可能なのではないか、とイングランドは考えました。

そこで1607年にアデンに東インド会社の拠点をおく交渉をするために、第3回貿易船団を送りました。構成した船はすべて海賊船です。

船団長はウィリアム・キーリング。大物海賊です。副船団長はウィリアム・ホーキンズ。いわずと知れたホーキンズ一族の人間ですね。ホーキンズはトルコ語が堪能でしたので、トルコ人とは直接交渉が可能でした。

しかしこの交渉は失敗に終わります。力を背景にした交渉ではいかんともしがたく、その後の10年間が無駄に過ぎました。

そこでイングランドは方針を変え、外交官に交渉を託すことにします。貴族出身の外交官サー・トーマス・ロウがインド・ムガール帝国におもむき、皇帝に直接拝謁して訴えました。すると当初考えていたアデンではなく、スーラトに拠点を設けることが決定したのです。

次いで1619年。ウィリアム・ホーキンズの腹心で次期海賊のリーダーと目されるウィリアム・フィンチの交渉により、イングランドは貿易船団がモカ港に自由に出入りできる許可を獲得します。

コーヒー貿易は当初、イングランドが世界に先駆けて独占。イングランドで富裕層を中心にブームとなって、コーヒーハウスがロンドンに立ち並ぶようになりました。

コーヒーハウスの出現

16世紀初頭からイスラム教徒はコーヒーを希少価値のあるドリンクと認識し、各地のモスクで飲む習慣があったそうです。1545年、オスマン朝スルタンのスレイマン治世下では、イスタンブールに世界初のコーヒーハウスが出現しています。

イギリスで最初にコーヒーが紹介されたのは、17世紀半ば、オックスフォード大学の名門校べリオル・カレッジでのことでした。当時の大学総長であったカンタベリー大司教ウィリアム・ロードが連れてきたクレタ島の学者が、コーヒーを紹介したそうです

イギリスが本格的にコーヒーの時代に入るのは、17世紀後半のこと。

1650年にはオックスフォードの大学都市に最初のコーヒーハウスが開店し、18世紀には黄金期に突入してロンドンに3000軒以上のコーヒーハウスが乱立。18世紀後半ともなるとロンドン周辺の都市も含めて8000軒が軒を連ねました。

ロイズ・コーヒーハウス

後に世界的企業のロイズ保険市場に発展するロイズ・コーヒーハウスが開店したのは、1688年(1687年という説も)のことです。

創業者はエドワード・ロイド。彼が40歳の時でした。ロイズ・コーヒーハウスというのは「Lloy's Coffee House」、つまりロイドが経営するコーヒーハウスという意味です。

しかし、経営者はずっとロイド一族の人間だったというわけではなく、ロイドが1713年に死去すると、ロイド家とは関係のない人物が入れ替わり立ち替わりで経営者になったそうです。しかし、ロイズの名前は堅持し、伝統を引き継いでいく努力がなされました。

ロイドが創業した時、すでにコーヒーハウスは興隆を見せていて、ジョナサンズ、ギャラウェイズ、ウィルズなど老舗のコーヒーハウスがしのぎを削っていたのです。そのなかでロイズ・コーヒーハウスが勝ち抜いていくためには、アイディアと努力が必要でした。

ロイズ・コーヒーハウスが一番人気になった理由

コーヒーハウスでくつろいだり商談をしたりするのは富裕層に限られます。ロイズ・コーヒーハウスを利用した常連客の多くは東インド会社の経営幹部や遠洋航海の船長、投資家など。つまり彼らのほとんどは海賊たちでした。

ロイズ・コーヒーハウスは、これらの上客をもてなすために、他のコーヒーハウスにはない特別な環境を提供しました。

  • 年中無休24時間営業
  • 清潔でくつろげる環境
    • 当時のロンドン市街は、汚物やゴミ、死骸などが堆積して異臭を放っていたという。だが、ロイズ・コーヒーハウスの中は常に清潔でくつろげる環境を保っていた
  • 各種飲み物と食事
    • 飲み物はコーヒーのほか、緑茶、紅茶、ビール、ジンなど。要望があれば食事も提供する
  • インクとメモ用紙の設置
    • 今ならなんでもないサービスにみえるが、当時はインクもメモ用紙も貴重品。それを店内の片隅に常備した
  • 商談や会議にも使えるよう、テーブルの配置やパーテイションを考え、くつろげる場所の設置などにも気を遣った
  • 常時、店内に接客係を配置
    • 朝から晩まで接客係を店内に立たせ、客のあらゆる要望に応えるようにした
    • 初代のロイズ・コーヒーハウスでは、男性接客係を3人、女性接客係を2人配置し、女性接客係には若い女性を雇い、時に店の入口に立たせて呼び込みもさせた
  • 海外事情に関するミニ講演会やオークションなどのアトラクションを開催
  • 貿易船や海外貿易に関する新聞「ロイズ・ニュース」を発行。後に本格的な経済情報紙「ロイズ・リスト」に発展

ロイズ・コーヒーハウスの接客係は、店内に立って客からお呼びがかかるのを「待って (wait)」いたことから、男性接客係を「ウエイター」、女性接客係を「ウエイトレス」と呼ぶようになったそうです。今では一般的な呼び名になっていますね。

東インド貿易の関係者が商談をしたり会議をしたりする場となったロイズは、もはや単なるコーヒーハウスではなくなり、帆船の調達や貿易船の購入・リース、はては遠洋航海に欠かせない保険の契約なども取り扱うようになっていきます。

消滅しかけたロイズ・コーヒーハウス

そんなロイズも、消滅の危機にさらされることがありました。それは経営者がもっともうけようとして、ギャンブルを持ち込んだからでした。

確かにオークションなどのエンターテインメントも催していましたし、遠洋航海の保険はハイリスク・ハイリターンのギャンブル性が高いものでしたから、その流れで賭博というのは自然な流れです。

しかし、なかんずくトランプ賭博が盛況になってくると、もはやビジネスの話どころではなくなってきました。

危機を感じた常連客(レギュラー)が、一計を案じます。

ウエイターのなかでも最も信頼の厚かったウエイターを支援して、ロイズから分離独立をさせ、ニューロイズを旗揚げさせたのです。一時期、ふたつのロイズがロンドンに並びましたが、旧ロイズはニューロイズに吸収合併させられていきました。

それと同時に、ロイズはコーヒーハウスを脱却して船舶海洋専門の保険会社に姿を変えていきます。現代ではもはや「会社」どころではなく、保険市場と呼ばれる世界企業になりました。

クラブ社会の出現

17世紀から18世紀にかけて、数多くのコーヒーハウスがロンドンおよびロンドン周辺にたちましたが、時を経るにつれ、それぞれがそれぞれの個性を発揮し専門化していきます。

王侯貴族の支持者が集まる拠点、貿易商人や投資家が集まる店、政治家の集会所、文人のたまり場、新聞記者の情報交換の場など、コーヒーハウスはそれぞれさまざまな特徴をもつようになりました。

これらの店が、重要な秘密事項が話されたり巨額な資金が動く商談の場ともなりますと、そこに詐欺師やいい加減なもうけ話を持ち込む者、敵対する会社のスパイなどが暗躍するようになります。これではビジネスの場としては不適切だ、ということになってきました。

そこで、身元のしっかりした確実に信用のおける人だけを客と認め、よく分からない人はオフリミットにする会員限定の店が誕生しました。いわゆるクラブ会員制が誕生したのです。また、全面的にクラブ会員専門店でなくても、店の一角に特別室を設けて対処するという店も現れました。

去って行ったコーヒー・ブーム

イギリス東インド会社がモカ・コーヒーを独占し、コーヒーハウスの花が咲きました。このコーヒー・ブームは100年続いたのですが、18世紀の中頃、急速に消滅していきます。

それはオランダがコーヒーの木をジャワ島に移植してその栽培に成功。ジャワ・コーヒーをモカ・コーヒーより安くヨーロッパに輸入できるようにしたからでした。

イギリスでは、うまみのなくなったコーヒーは先細りとなり、俄然、お茶が国民的飲料となっていきます。

To be continued


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明治大学文学部を卒業した後、ラボ教育センターという、子どものことばと心を育てることを社是とした企業に30数年間、勤めてきました。 全国にラボ・パーティという「教室」があり、そこで英語の物語を使って子どものことば(英語と日本語)を育てる活動が毎週行われています。 私はそこで、社会人人生の半分を指導者・会員の募集、研修の実施、キャンプの運営や海外への引率などに、後半の人生を物語の制作や会員および指導者の雑誌や新聞をつくる仕事に従事してきました。 このブログでは、私が触れてきた物語を起点として、それが創られた歴史や文化などを改めて研究し、発表する場にしたいと思っています。

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