![]() |
アンナが住んでいたウォーバンアビーの応接室 ブルー・ドローイング・ルーム |
前話では、イングランドがコーヒー貿易を独占し、ロンドンを中心として、商売の話や情報交換の場としてのコーヒーハウスが興隆をきわめた、というお話をいたしました。
しかしこれは、ロンドンおよびロンドン周辺に住む上流階級やお金持ちの間で広まったに過ぎず、コーヒーは庶民の飲み物ではありませんでした。コーヒーに代わって登場したお茶も、イングランドに輸入された頃はとても高価で、王侯貴族の富と権力を象徴する飲み物として流行したのでした。
そのお茶が、なぜどのようにして一般庶民の生活にも欠かせない飲み物になっていったか、ということをお話するのが、今話および次のお話の目的です。
お茶に触れた最初のヨーロッパ人
ヨーロッパ人が東アジアとの貿易を始めるのは16世紀に入った頃ですが、その担い手はポルトガル人とオランダ人でした。そのうち最初にお茶の輸入を始めたのはオランダです。ポルトガルは、1557年にマカオに交易基地を設けて貿易を始めますがお茶には関心はなく、主目的は香辛料の輸入でした。
オランダは1610年にマカオと平戸で茶を購入しています。それをオランダ領ジャワに送り、荷物を積みかえてオランダのハーグに輸送しました。
1650年代になると、オランダは仕入れたお茶をフランスやバルト海沿岸の諸国に輸出し、オランダ東インド会社は東洋の諸国との茶貿易を独占するようになります。
日本・中国への憧れ
日本は江戸末期に鎖国を解いた後、欧米諸国の文明に驚いて、「追いつき追い越せ」の掛け声とともに富国強兵にまい進するようになりました。その後遺症で、今でも欧米諸国に対しては憧れのようなものがあります。
しかし意外だと私は思うのですが、お茶がヨーロッパに輸入され始めた頃のヨーロッパ人がみた(想像した)東洋の国ぐには、誇り高く長い歴史と深い思想をもっている国ぐにであるとして、強い憧れのまなざしを向けていたのです。
![]() |
『ライオンと魔女と大きなたんす』 |
とくに日本に対しては「東洋の文化の象徴」(『一杯の紅茶の歴史』より)とみなされていたのです。オランダ商人は日本に訪れたときに茶道に触れ、その作法とともにお茶をヨーロッパに紹介しています。彼らはその精神性の深さに感銘を受け、コンプレックスさえ覚えたといわれたということでした。
イギリスに持ち込まれたお茶
イギリスで最初にお茶が売り出されたのは、1657年のことです。このお茶は緑茶でした。中国でも日本でもお茶といえば緑茶であり、紅茶が作られるようになったのはヨーロッパ人がそれを欲したからでした。
イギリス人が飲んだ初めてのお茶(緑茶)は、オランダから輸入されました。
コーヒーハウスで販売
![]() |
1686年ギャラウェイズのポスター |
イングランドにおいて、お茶は17世紀後半にコーヒーハウスで飲まれるようになりました。そのひとつに、ロンドンのエクスチェンジ・アレーにあるコーヒーハウス「ギャラウェイズ(第18話参照)」があります。お茶を売り出すためにギャラウェイズが制作したポスター(右図)を見てみましょう。
当時のポスターは現代のそれのように、目を引くイラストやタイポグラフィなどはなく、とにかく効能書きのようにアピール点を書き並べたものでした。要点をまとめると次のようなことが書かれています。
- 「古い歴史や文化を誇る国々は東洋の茶を、その重量の2倍の銀で売り買いしている」
- 頭痛、結石、水腫、壊血病、記憶喪失、腹痛、下痢、恐ろしい夢などの症状に効く
- ミルクや水をお茶と飲むと肺病の予防になる
- 肥満の人には適度な食欲に抑える
- 暴飲暴食の後には胃腸を整える
- (その他、全部で20箇条の効能が書かれています)
上流階級でお茶が流行
コーヒーハウスのメニューのひとつとして取り入れられたお茶ですが、コーヒハウスに通うのは男性であり、男性はコーヒーを片手にミーティングをするのが主流でした。
一方、お茶が広まるには上流階級の女性の活躍が必要でした。
お茶の流行は宮殿から
![]() |
キャサリン・オブ・ブラガンザ |
チャールズ2世は、持参金に銀を要求しました。しかし、キャサリンが持ってきたのは、一塊のお茶と船七隻に満載した砂糖です。お茶は、見知らぬ土地で過ごさなければならない自分の健康と精神の安定のためで、砂糖は銀の代わりでした。
銀貨はヨーロッパの国同士で、あるいは東アジアとの国ぐにとの貿易で使われた、当時の国際通貨です。砂糖はヨーロッパでは栽培することができず、砂糖と銀は同等の価値がある、とみなされていたのでした。
ポルトガルはブラジルに植民地をもちサトウキビを栽培させていましたので、砂糖を簡単に手に入れることができましたが、イングランドには蜂蜜や砂糖でつくる過程でできる搾りかす(糖蜜)しかありません。はじめは銀を要求したチャールズでしたが、大量の砂糖をみてこれを受け入れました。
キャサリンはまた、中国や日本の茶器も持参していました。貴婦人たちが訪ねてきた時や彼女たちを招待したりした時には、その茶器でお茶を振舞ってもてなしたのです。
東洋の茶器や神秘の飲み物に触れた貴婦人たちは憧れを感じて、競ってそのまねをします。
キャサリンの東洋趣味はたちまちのうちに上流階級社会で流行しました。この流行はまた、飲み物の習慣も変えていきます。以前は男も女も飲み物といえばエールやワイン、チョコレート(ココア)だったのですが、だんだんお茶がメインになっていきました。
アフタヌーン・ティの流行
18世紀に入りますと、食事文化にも変化が起きます。エリザベス女王が国を治めた16世紀の頃の朝食といえば牛肉を3切れといった食事でしたが、この頃になりますと朝食はお茶とバター付きのパンになります。
文芸評論家のアディソンは「規則正しい家庭はすべて、毎朝1時間、ティとパンで朝食をとっている」と述べているのですが、この頃には朝の起き抜けの時にチョコレートなどの飲み物を飲む習慣ができており、それがだんだんお茶に代わっていってアーリー・モーニング・ティという習慣になっていきます。
18世紀はじめ頃の食事は1日に2回で、朝食は午前10時、夕食は3時から4時頃にとっていました。それが19世紀に入ると夕食は遅くなり、アフタヌーン・ティの習慣が広まります。この習慣を始めたのは、フランシス・ベッドフォード公爵夫人のアンナ・マリア(1788-1861)でした。
その頃の貴族社会の食生活は、朝食はイングリッシュ・ブレックファーストと呼ばれる盛りだくさんの朝食をとり、昼食は少量のパンや干肉、フルーツなどといった軽めの食事、夜は観劇などの後に社交を兼ねて行われる晩餐という流れでした。すると、晩餐は早くて8時です。
このスタイルだと昼食と晩餐の間があいてしまうので、その間の空腹は耐え難く、観劇の最中にお腹が鳴ってしまうというアクシデントも起こってしまいます。そこでアンナは午後3時から5時の間にお茶を飲みながらサンドイッチや焼き菓子を食べるという習慣を始めました。
同じようにして彼女は、訪ねてきた貴婦人を美しいブルー・ドローイング・ルームに招いて、お茶とティフードでもてなします。これが貴婦人の間で評判になり、アフタヌーン・ティの習慣が広まっていったのです。
上流階級のティ・マナー
当時のヨーロッパの人々にとって、東洋は神秘の国、長い歴史と深い思想性をもった人々が住む国でした。それは商売人たちが誇張に誇張を重ねた結果、できあがったイメージであったかもしれません。特に日本の茶の湯の文化に対しては深い敬意を払っていました。
情報の少ないなか、東洋の飲茶の作法をまねようとして採用したマナーは、今から考えるとちょっと滑稽なものであったりします。
まず、熱々のお茶は中国や日本式の取っ手のない茶碗に注がれます。すると熱くて飲めないので、わざわざそれを受け皿に少しずつ移し、受け皿から飲みます。飲む時にはできるだけ大きな音ですするのがマナーでした。
日本人が熱い煎茶を飲む時、すする音をたてます。こうすると少しお茶の熱さが和らぎますし、空気と混ざってまろやかな味にもなります。
そういった実利的な目的もありましたが、お茶は貴族やお金持ちしか飲むことができなかったので、大きな音をたてることで周りに自分は金持ちだと自慢する、といった気持ちも働いていたといいます。
イギリスでは緑茶ではなく紅茶が好まれたわけ
一言でいってしまえば、イギリスとりわけロンドンの水に紅茶が合っていた、ということが大きいようですね。
ブリテン島は地域によって水質が軟水だったり硬水であったりします。硬水は石灰分が多く含まれているので、それがお茶の味や香りに大きな影響を及ぼします。ロンドンやその周辺の都市の水は硬水でしたので、軟水の国である日本で飲むお茶とは違う味わいになってしまうのです。
硬水で緑茶をいれると、石灰分の影響で煎水は濃くなるのですが、味と香りは弱くなってしまいます。というのは渋味のもとになるタンニン(カテキン類)は硬水でいれると出なくなるからで、はっきりしない味になってしまいます。
ところが緑茶を発酵させてできる紅茶は、タンニンが多く含有量が多くなって、硬水でいれるとマイルドになってほどよい味わいになるのです。
ロンドンあたりに住んでいる上流階級の人々は、初めのころこそ東洋にあこがれて緑茶を求めました。しかし硬水でいれる紅茶が自らの嗜好に合うと分かってからは、紅茶に対する需要が増えていきました。
出典:ウツミチ*ロンドン暮らし
To be continued
ウォーバンアビー (Woburn Abbey)
ウォーバンアビーとはベッドフォード公爵邸のことをいい、ロンドンから北に100kmほど離れたところにあるベッドフォードシャーにあります。アンナの夫、フランシス・ベッドフォード公爵は、この家の7代目にあたります。敷地面積は3000エーカー(約1240ヘクタール)あり、広大な敷地内には鹿や羊なども生息しています。
アンナの自慢だったブルー・ドローイング・ルームは、現在は一般公開されていて、誰でも見られるようになっているとのことです。
スペインの銀と日本の銀
17-18世紀の頃の東洋はヨーロッパに比べてはるかに豊かな文明国で、ヨーロッパ人が物々交換しようと高価な品物を持参しても、インドや東アジアの人びとにとってほしいものはありません。貿易をするためには通貨として銀を持ってくるほかなかったのです。
スペインは南米の銀山(有名な銀山はボトシ銀山。現代のボリビアの銀山です)から銀を大量に採掘しビアストル銀貨を鋳造していましたが、それだけでは増えてきた東アジアとの貿易には足りません。
茶貿易の先陣を切ったオランダ東インド会社が頼ったのは、日本の銀だといわれています。
16世紀から17世紀中頃にかけて、日本は世界有数の銀産出国でした。石見や生野などの銀山から産出される銀の量は、メキシコやペルーで産出される銀の量と同等だったそうです。
『茶の世界史』著者の角山栄氏は、17世紀の貿易立国オランダの繁栄を支えたのは、日本の銀ではないかという説を提唱しています。
「オランダは商業活動によって繁栄の基礎を築いたことはいまさらいうまでもないが、その繁栄を支えたのは、じつは日本の銀ではなかったかと思われる。というのは、オランダの繁栄期はふつう17世紀中頃、すなわち1640-70年代がその最盛期であったといれているが、その最盛期が、日本からの銀輸出の最盛期と符丁をあわせたように一致しているからである。コペンハーゲン大学のグラマン教授によれば、1668年幕府がオランダ船による輸出を停止するまで、日本から流出した銀の量は莫大なもので、オランダが本国から持ち出した銀とほぼ等しいか、ときにはそれを上まわってさえいたというわけである。」(『茶の世界史』より)
毎年大量の銀を産出した日本の銀山もやがて枯渇し、1668年にオランダへの銀輸出を停止します。そこからオランダの衰退が始まりました。
アフタヌーン・ティの小物たち
貴重な飲み物であるお茶は、東洋趣味の意匠を施した鍵のかかるキャディ・ボックス(caddy box)に大切にしまわれていました。
ボックスの中は左右に小箱を配置して、それぞれ緑茶と紅茶を別々に入れておけるようにしてあります。真ん中にはボウルがあり、ここで緑茶と紅茶をブレンドしたりしていました。
重要な客が来ると、家の主人は執事あるいは召使にボックスを持ってこさせ、うやうやしく鍵を開けてからお茶をいれる作業を始める、といった調子でその貴重さを表現したのです。
茶のいれかたにはオランダ式と中国・日本式がありました。オランダ式は、茶葉を銀のポットに入れて水を注ぎ、火にかけて煮出す方法です。中国や日本式は、ご存じのように、急須のような小さなポットに茶葉を入れて、その上に熱湯を注ぐ方法。
イギリスはオランダ式を採用しました。
お茶を入れるポットは、中国製の陶器や磁器でできた高価なものですが、0.3リットルしか入らない小さなものでしたので、何度もお湯を注いで2杯目、3杯目を飲んでいました。
すると、ポットの注ぎ口の穴が詰まったり表面に茶の茎などがくっついたりしてくるので、銀製のモートスプーン(mote spoon)というもので取り除きます。モートスプーンは、お茶をすくう部分に細かな穴が開いており柄の反対側はとがっています。
注ぎ口が詰まった場合には、とがった部分を差し込んで取り除き、ポットの表面に茎などがくっついた場合には穴のあいたスプーンで取り除くのです。
0 件のコメント:
コメントを投稿
お読みいただき、ありがとうございます。ぜひコメントを残してください。感想や訂正、ご意見なども書いていただけると励みになります