王室や貴族など上流階級のライフスタイルは、中流以下の階級の人間にとってはあこがれの対象です。自分もあんな風に暮らしてみたいと思うのは、人間の自然な感情でしょう。お茶を通して伝えられる東洋の神秘に自分も触れてみたい。働きづめの毎日であっても休み時間にはお茶を楽しみ、一瞬だけでもくつろぎたい……。
しかし、そんなあこがれを実現させるためには、自分が大金持ちになるか、お茶が少しのお金で手が届くほど安価でなければなりません。
そんな夢のようなことが、イギリスでも次第に現実のものになっていきます。
一方、特権階級にとっては、自分たちが独占している優雅な暮らしを、貧民や召使いに至るまで享受できるようになるとおもしろくありません。一般市民の飲茶反対論が公然と起こってきます。
そんな時代の変化を、今話はお話ししてみたいと思います。
お茶の普及の原動力
イギリスの一般庶民にお茶が普及し、国民的飲料となる要因は3つありました。
- 本物のお茶は飲めないが代わりとなる代用茶が存在し、お茶を受け入れる素地があった
- お茶の価格が劇的に下がった
- 国民一人ひとりの所得が上がった
お茶が流通する前の庶民の飲み物
上流階級の人々が、コーヒーやワイン、お茶、チョコレート(ココア)を優雅に楽しんでいたころ、庶民の飲み物といえば、水か自家製エール、お茶もどきの代用茶を飲んでいました。
ちなみに、エールとは麦芽とイーストと水だけで醸造したもので、ビールの一種ともいえますが、ビールとの違いはホップを使っていないことです。17世紀末までは上流階級でもエールを飲んでいました。農民の間では、お祭りや結婚式といった特別な日に飲まれたものです。
一般庶民が飲んだ代用茶は次のようなものがありました。いずれも tea と呼んでいましたが、厳密には紅茶/緑茶という意味の tea ではなく、ハーブティの仲間になります。
- セイジ・ティ(Sage tea)
- イヌハッカ茶(Catnip tea 風邪に効く)
- ヒソップ茶(Raspberry tea 咳に効く)
- 黒スグリの茶(Black-currant tea ハチミツで飲めばのどや咳に良い)
イギリス人の飲み物としてお茶が残った
お茶の価格が下がったというお話をする前に、主流となる飲み物がお茶になっていった理由を整理しておきましょう。
お茶が主流になる前、上流階級の飲み物が国民的飲料になる可能性があったのは、他にコーヒーとココアがありました。しかし、これらはイギリスの国民的飲み物にはなりませんでした。
17世紀中頃から18世紀はじめにかけて、お茶とコーヒーとココアはほぼ同時期に入ってきました。
そのうちコーヒーは第18話でお話ししたように、18世紀に入るとオランダがジャワにコーヒーを移植することに成功して、コーヒーを安い価格でヨーロッパに輸入できるようになり、そのためイギリスによるコーヒー貿易の独占体制が壊れたことが大きいです(第18話参照)。また、後でお話しするように現地の買い付け価格が跳ね上がったということもありました。
チョコレート(ココア)は、価格が下がらずずっと上流階級の飲み物であり続けました。さらに悪いことに、イギリスではジャマイカなどでカカオを栽培していたのですが、1727年に西インド諸島を襲ったハリケーンにより全滅してしまいました。
残ったものはお茶です。でも高い。ところが、その価格が劇的に下がることによってお茶は庶民に浸透していきました。
では、お茶はなぜ価格が下がったのでしょうか。
お茶の価格が劇的に下がったわけ
ひとつには、お茶への課税が急激に下がったということがあります。
1660年代、コーヒーハウスでお茶が飲まれるようになったことで、お茶は課税対象になりました。お茶に消費税がかけられたのです。それ以来、1964年に課税制度が変わるまで存続します。
またイギリスはいろんな国と戦争をしましたから、そのたびに戦費が必要になります。そこで増収を狙って、お茶にかける関税もどんどん高くなっていったのです。
すると、関税逃れをする者が現れます。密輸業者です。また紅茶の密造をする者が現れ、粗悪なにせ物の紅茶も出回るようになります。
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リチャード・トワイニング |
さらにリチャードは、政府に茶税の引き下げを申し入れました。
「税金を高くすれば密輸品が増え正規の取引が減るので、結局税収も減る。それよりも、税を下げれば正規のルートの商売が成り立つので、税金は流通分がきちんと入る」と主張したのです。
時の首相ウィリアム・ビットはこの申し入れを受け入れ、1784年に大幅な減税を行いました。これによりお茶の値段が劇的に下がったのです。
まがい物の紅茶との値段の差がなくなると当然ながらにせ物は駆逐され、密輸もなくなっていきます。一方、税収はというと、お茶の年間消費量が倍に跳ね上がって、大幅な増収を達成することができました。
コーヒーの関税も引き下げられたのですが、現地の買い付け価格が激しく高騰し、お茶に比べて相対的に高額のまま据え置かれました。
また、イギリスには強い中国へのあこがれがあり中国茶へのこだわりはあったものの、インドのアッサムやセイロンで茶の栽培に成功し、これが価格をさらに下げる要因になりました。
そうなると、安い方を選ぶというのは当然でしょう。
産業革命による一般庶民の生活水準向上
さらに、一般市民の生活水準が向上したことも見逃せません。18世紀頃から始まる産業革命が一般庶民の可処分所得を増やして生活に余裕ができると、憧れであった上流階級のライフスタイルにも手が届くようになります。
このような生活の変化をもたらした産業革命ですが、産業革命にはさまざまな要因が絡まっています。
詳しく見てみると、農業革命、技術革命、交通革命、商業革命、金融革命といったものが総合して、産業革命というものを実現させていったということが分かります。
・農業革命
1730年頃から穀物価格が下がり、栄養価の高い食物が普及し始めます。これは、ノーフォーク農法に代表されるように、農業の技術革新があったおかげでした。
ノーフォーク農法とは、穀物とカブの栽培を輪番制で行う農法です。これにより冬期でも家畜の飼料をつくることができるようになりました。
また、効率的な農業が実現したことで、囲い込みによる大農場が各地に生まれます。それまでは小さな農家も自分の土地をもって農業を行っていましたが、大農場主に土地を取り上げられて小作農化していきます。また、下層農民は賃金労働者として都市に流れていきました。
都会で浮浪者になった下層農民が、プレスギャングの餌食になっていったことは、第1話でお話しいたしましたね(第1話参照)。
・技術革命
工場での大量生産を可能にする技術革命もありました。農業革命ではじき出された下層農民は、工場に集められて「効率的に」働かされるようになりました。
産業革命をけん引したのは綿産業です。ジョン・ケイが発明した「飛杼(とびひ)」にはじまり、各種の紡績機や機械が開発されました。
さらに、ジェームズ・ワットが発明した蒸気機関を紡績機に取り入れたことで、生産性は飛躍的に向上します。その成功の裏には、18世紀初頭から使われ始めた石炭が活躍しました。
・交通革命
工業製品が大量に作られるようになると、それを各地に運ぶ物流のインフラが必要になってきます。
早くも18世紀前半にはイギリス全土に有料幹線道路が建設されます。それは地方とロンドンを結ぶ幹線道路網になっていきました。また運河もつくられ、石炭を運ぶのに利用されました。
さらに蒸気機関を応用して、ジョージ・スティーブンソンが蒸気機関車を発明します。最初の実用化は、1830年に綿産業の中心地マンチェスターと大港湾都市のリヴァプールを結ぶ鉄道を開通させたことでした。
・商業革命
西インドや北アメリカ、インドの植民地はイギリスに砂糖、タバコ、茶などを売って利益を出し、イギリスはその購買力を当て込んでさまざまな工業製品を植民地に売るという、流通網ができあがります。
ただし中国(清)などはイギリスの工業製品を必要としなかったので、国際通貨としての銀を中国に放出するばかりです。そのため貿易赤字がかさみ、イギリスは財政破綻の危機にまで陥りました。そこでインド産のアヘンを中国に売ることを考え、強引なやり方でアヘンを売りつけました。これがアヘン戦争を引き起こす原因になったのです。
・金融革命
大量生産により財を築いた会社は、さらに資本を拡大させるために株式を発行、それを銀行や証券会社が購入するということが始まります。
また、銀行は融資を本格化させました。
名誉革命で王位に即いたウィリアム3世は、1694年にイングランド銀行いわゆる中央銀行を創設させ、議会から保証された長期国債が出回るようになります。
この、18世紀から19世紀にかけての産業革命を通して一般庶民の収入も向上し、お茶の価格が劇的な値下がりすることによって、お茶をたしなむ市民も出てきたのです。
一方で、貧困にあえぐ工場労働者の切実な問題もありました。
貧困層の家庭では女性や子どもまで労働力として工場で働き、食事もまともにとる時間がありません。しかし、紅茶に砂糖を入れて飲めば手早く温かいものをとることができ、カロリーも摂取できます。彼らの紅茶の飲み方は、薄い紅茶に少量の砂糖、それに牛乳かジンを入れるといったものでした。
男たちは低賃金で1日15~16時間働きましたが、その後酒場で深酒をしたりしたので家計は苦しくなるばかりです。家庭では、一日中託児所に預けられてむずがる赤ん坊や幼児にアヘンシロップやアヘン入りキャンディを与え、虚弱になったり死亡したりする事故が相次ぎました。
それに比べれば、たとえ粗悪なお茶であっても、飲茶のほうがこれらの悪癖よりは良いということでお茶の需要が一層増した、ということもあります。
飲茶論争
それまで特権的にお茶を嗜んでいた上流階級の人々にとって、下層の者までお茶を楽しめる状況は、あまりおもしろくありません。
また、厳格なキリスト教プロテスタントにとっても、飲茶は享楽的で堕落につながるものに見え、強力に反対して、お茶を買う余裕があるのなら貧民に対して施しをするべきだ、という立場をとりました。
スコットランド国民は、イングランドに無理やり併合された恨みもあって、なにかと反発しますが、イングランド人が大好きな飲茶もやり玉にあげました。いわく、茶という舶来のぜいたく品は、男性を柔弱で怠惰な人間にするとし、その証拠としてイングランドの上流階級の人間は筋肉もなく弱弱しい、と主張したのです。
さらに、医学界からも反対の声が上がりました。茶は人を柔弱にし、憂うつ症などの不快症に陥らせるとしました。
ジョン・ウェズレーというメソジスト教会の創立者は、自身の経験から、お茶がもたらす中風のような症状つまり手の震えや頭痛が起き、一時的な記憶喪失症にもなったと主張します。そして自分の会員には、「聖書と理性の力に従って」お茶を断ち、その分を蓄財して貧民を救うために使うことを推奨しました。その結果、10日以内に30ポンドを蓄積して250人の貧民を救ったとのことです。
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ウェズレーにウェッジウッドから贈られたティポット |
アーサー・ヤングという経済学者は、飲茶は国民経済に悪影響を及ぼすとしました。なにより男性が、婦人と同じようにお茶を食料品とすることが嘆かわしい、という感情が働いたようです。ましてや、農民から召使までが朝食にお茶を要求するなどもってのほかとし、良くない飲み物で時間を浪費することは貧民をさらに貧乏にして苦しませることになるだろう、と言い放ちました。
これらの反対論に対して、飲茶に賛成する人ももちろんいました。その代表格がジェームズ・ステュアートという人です。彼は、産業革命によって高賃金を得られるようになった庶民がお茶に親しむようになれば、お茶の国内需要を増大させ生産を刺激するだろう、国の生産力発展にとってはむしろ有益である、と主張したのです。
その結果どうなったかというと、ジェームズのいうように、高賃金はお茶の国内需要を増大させ、機械の発明と労働集約型の企業化によって産業革命が起こりました。
医学界からも賛成論が出ています。
ジョン・コークレイ・レットサムという医師は、『茶の博物誌』という本のなかで、人間の体質はさまざまで飲み物の効果も人によって異なる。しかし、ひとたび偏見を抱いた人はそれによって判断をゆがめてしまう。また別の人は自分の個人的な経験を普遍的なものと思ってしまう。憶測ばかりでは事態は変わらないだろう、として実験によって科学的にお茶の効用を研究しました。
やがて、お茶がさらに広く普及するにつれて酒よりも健康な飲み物だという肯定論が多数派になっていきました。とくに1788年に、お茶の輸入量が年間1000万ポンド(約4540トン)を超える頃になると酒代よりお茶のほうが安くなったので、反対論は影をひそめていったのです。
お茶を愛するイギリス人
イギリス人は、一日にお茶を何杯飲むかご存じですか?
私はよくは知りませんが、『茶の世界史』(角山 栄著)によると次のようなお茶の愛好ぶりが書かれています。
- 朝、目が覚めるとベッドでお茶を飲む
- 朝食時にはお茶が出るので飲む
- 11時になるとティ・ブレイクで飲む
- 昼食で飲む
- 4時のティ・ブレイクで飲む
- 夕食時に飲む
- 夕食後にも飲む
というのが平均だそうで、合計してみると一日に最低7杯は飲む、ということになりましょうか?
朝11時と夕方4時のティ・ブレイク時には、たとえ仕事が途中でももうちょっとで仕事が完結する時でも中断し、仲間と談笑しながらお茶を楽しむのが常だとのことです。
客をもてなすときには、必ずお茶にケーキやビスケット、チーズ・クラッカーなどのつまみをつけ、日曜の午後のハイ・ティでは、ケーキやサンドイッチなどもつけます。
紅茶の飲み方としては、ミルクティが一般的。
通常、ティ・ポットとミルク・ピッチャーを両手に持って同時にカップに注ぎますが、こだわる人は、ミルクを先に入れるべきだ、いや紅茶を先に入れるべきだ、というような熱き論争が巻き起こることもままある、ということでした。
To be continued
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