そろそろ紅茶シリーズは終わりにしようかと思うのですが、紅茶を語るときには外せない人たちのことに触れなければ、終われないかなあと思いました。
そこで、前話で少しお話ししたトワイニングをはじめとして、アールグレイが生まれるきっかけとなったグレイ伯爵、そして商才とユーモアで紅茶を国民的飲料にまで普及させたリプトンについて触れておきたいと思います。
このほかにも、イングランドに飲茶の習慣を持ち込んだキャサリン・オブ・ブラガンザやアフタヌーン・ティを流行させたアンナ・マリアがいますが、この人たちについては第19話でご紹介しました(第19話参照)。
それから、苦労してアッサム茶を世に出したブルース兄弟のことも取り上げるべきだとは思うのですが、ちょっとトリビア的になるので、今話は割愛させてください。
お話の最後に、おいしい紅茶のいれ方のレシピを載せておきますので、最後までお読みいただけると幸いです。
それでは、トワイニングのお話から始めましょう。
職工から王室御用達の茶商になったトワイニング
あまりに高すぎる茶税に反対して減税を申し入れ、時の首相のビットに受け入れられて減税が実現。その結果かえって税収が増大したということでしたね(第20話参照)。
つまり、トワイニングの3代目ともなると、議会に対してものが言えるほど権威があったということが想像できます。
では初代頭首トーマス・トワイニング(1675-1762)は、初めから上流階級の人間だったのでしょうか。さにあらず。父親はイングランド西部にあるグローセスター・ペインズウィックで毛織職工をしていました。一家は1684年にイングランドを襲った大不況の荒波を受けて、ロンドンに移住します。
トーマスははじめ職工として年季奉公に出ますが、やがてロンドンの自由市民権を得ると1701年に東インド会社で働き始め、お金をためて、1706年に「トムのコーヒーハウス」をロンドンのストランドに開店させました。「トムのコーヒーハウス」は順調に成長を続けます。2代目のダニエル・トワイニングの時には、茶税が大きく値上げされ、お茶を扱う店で倒産する店がいくつも出てくるという事態になってきます。
そして3代目リチャード・トワイニングの時に、彼が政府に減税を申し入れて実現するのです。具体的にトワイニングの権威がどれくらいだったのかは、私が参考にしている本には書かれていないのですが、1809年にはリチャードはインペリアル保険会社の会長に就任し、1810年には東インド会社の理事に推薦された、という史実をみれば、実業界にも政界にも相当太いパイプを持っていたことがわかります。
紅茶の取引相手も、上流階級の人々で占められていました。
極め付きは、リチャードが1818年に息子のリチャード2世に経営権を譲った後、ビクトリア女王が即位した1837年に、トワイニング家には王室御用達の許可書が与えられたことでした。
憧れの「正山小種」を手に入れたグレイ伯爵
チャールズ・グレイ伯爵(1764-1845)は、自身がお茶を作ったとかお茶を売ったとかいう人ではありません。中国で最初に生まれた紅茶、正山小種(チュンシャンシャオチョン)を熱望して得られず、代わりにアールグレイを誕生させた人です。
なお、アールグレイのアールとは「伯爵」という意味で、グレイ伯爵の紅茶というような意味になります。
正山小種とは
中国でお茶といえば緑茶のことをいい、紅茶はマイナーな存在です。
そんな中国で初めてできた発酵茶(紅茶)の正山小種は、中国・福建省は武夷(ウーイー)山脈の標高1000メートルあたりのところにある桐木(トンムー)村で生まれました。
・自然発酵したお茶
そこでは茶園ができるような広い場所はありません。村人は山菜取りにでも行くような格好で山に入り、そこに自生しているお茶を摘んできて、それでお茶を作ります。
1日にとれる量としては6~7グラム程度で、最大限とれたとしても10グラムといったところです。この村ではほかに産業はなく、お茶で生計を立てるしかありません。
正山小種の正山とは武夷山のことをいい、小種は少ししかとれない自然に生えているお茶、という意味です。まさに武夷山でとれた貴重なお茶であることを保証する名前なのです。
村人は、摘んだお茶を竹かごや麻の袋などに入れて山をおりるのですが、その間に中の茶葉はこすれて傷つき、自然に発酵します。それを松の木で煎って乾燥させるのですが、その時に工場に流れ込んだ松の木の煙の匂いが茶葉に付着します。
すると武夷山の土と気候が茶葉に与えるフルーティな風味と松の煙の匂いが合わさって、濃厚な味わいに不思議な香りがするお茶ができあがります。それが正山小種なのです。
・正山小種=ラブサンスーチョン?
このお茶に最初に触れたイギリス人はとても感動し、武夷山をお茶の聖地としてあこがれるようになりました。
当然、正山小種の需要は高まります。しかし正山小種はわずかしか生産できないので、その需要に応えることができません。
そのため、イギリス東インド会社と中国は、武夷山以外から茶葉を調達し、正山小種紅茶(ボーヒーまたはボヘア)と称して売りました。
また、前にお話ししたようにロンドンの水は硬水です。正山小種のふくよかな味わいは、硬水でいれると飛んでしまって気の抜けたようなものになってしまうのです。そこで、人々はもっと強烈な味を求めるようになっていきます。
そこで、中国の茶商人は外山(武夷山以外の山)でとれた茶葉を松の木で燻製し、強烈な臭いをつけて売るようになりました。
それが今でいうラブサンスーチョンです。ラブサンスーチョンとは正山小種(チェンシャンシャオチョン)の英語読みですが、ラブサンスーチョンの風味は正山小種の本来のものとは似ておらず、正露丸のような味わいのお茶です。
グレイ伯爵の正山小種
グレイ伯爵は、3代目リチャード・トワイニングが茶税の減額を申し入れた時の首相ウィリアム・ビットと同世代人です。
イートン校からケンブリッジ大学に進み、1768年、伯爵が22歳の時に下院議員になりました。当時、野党であったホイッグ党を率いて国王ジョージ3世とビットの政策に反対を唱え、1830年にホイッグ党が与党になると新時代に即応した法律を次々と成立させました。
その彼が海軍大臣だった時代に、中国使節団から武夷のお茶が送られてきました。正山小種です。伯爵はこのお茶を大いに気に入り、もっと飲みたいと茶商人に注文します。しかし正山小種は生産量が少なく、そう簡単に要望に応えられません。
そこでその代用として、アールグレイが作られたのです。
アールグレイは、先ほどお話ししたラブサンスーチョンのように、松の煙で燻製されたりしていません。その代わりに使用したのがキャンディやケーキなどに使われるベルガモットです。正山小種は松の煙の匂いのほかに龍眼と呼ばれる果実に似た香りがします。この香りによく似たベルガモットで正山小種に近づけようとしたのでした。
この紅茶を誰が作ったのかは、長い間謎でした。近年になって9代目のサム・トワイニング氏が、トワイニングこそがアールグレイを作ったのだと明かします。
「(トワイニングの4代目)リチャード2世の時代、正山小種紅茶の煙の香りは、今のラブサンスーチョンほど強くなかっただろう。それで煙の香りより、正山小種茶のもう一つの特徴である龍眼の香りに注目し、彼が思いついたのが、当時シチリア島で栽培され、フランスではキャンディーやケーキにも使われていたベルガモットだった。」サム・トワイニング
またトワイニング社では、アールグレイの缶にサム・トワイニング 氏とグレイ伯爵の写真を載せ、伯爵の要望でアールグレイ紅茶が生まれて世界中に知られたことを光栄に思う、というコメントを掲載しています。
商才とユーモアでお茶を市民のものにしたリプトン
初代トーマス・リプトン(1850-1931)はその商才と市民の心をわしづかみにするユーモアを武器に一代で財を成し、薄利多売を旨とした経営哲学を実行することで、一般市民に紅茶を浸透させました。
修業時代
トーマスの両親はアイルランドの農民でしたが、1840年にジャガイモの大飢饉が起こり、一家は追われるようにしてスコットランドに移住、グラスゴーで雑貨屋を始めました。トーマス・リプトンはそこで生まれます。トーマスは幼い頃から商才を発揮しました。たとえば、アイルランド語とスコットランド語のバイリンガルである彼は、アイルランドの客にはアイルランド語で、スコットランドの客にはスコットランド語で話したので、みんながトーマスを好きになりました。
卵を売るときには、「手の大きな父親より手の小さい母親のほうが卵が大きく見えるので、母親が売ったほうがいい」と助言したりもしています。
小学校にあがると、放課後に文房具店で働き始めました。彼には手押し車を押して港へ行き入荷した商品を受け取りに行く仕事がありましたが、そのとき船員たちから外国の話や航海のことを聞くのを楽しみにするようになりました。
文房具店からシャツを作るお店に仕事を変えてからもその楽しみを継続させ、暇を見つけては港に行って話を聞いていました。
13歳でキャビンボーイの仕事に就き、15歳のときに両親の反対を押し切って単身アメリカへ渡ります。
ニューヨークに到着したとき、トーマスのポケットには10ドルも残っていませんでした。しかし彼は平気です。ホテルの客引きがたむろしているところに行って、「客を12人連れてくるから、ホテルに1週間、ただで泊めさせてくれ」とお願いして実行し、成功させたのでした。
当時のアメリカは南北戦争が終結したばかりです。そのため軍需工場が閉鎖されて失業者があふれるほどだったので、北部には働き口がありません。そこでトーマスは南部に移動し、仕事を転々としながらお金をため、3年後にニューヨークに戻りました。ニューヨークでは、念願だった百貨店の食料品売り場に仕事を見つけます。
ここで商品の仕入れ、販売方法、接客、宣伝といった商売のイロハを徹底的に勉強し、19歳のときにグラスゴーに帰還しました。
リプトンの店開店からの躍進
さて、ここからが戦闘開始。
1871年5月10日、トーマス・リプトンはグラスゴーのストップクロス・ストリートに、お店を開きます。このお店はアイルランドの食料品を売るお店で、その時の従業員といえば、トーマスの他はお手伝いの少年と猫1匹でした。
トーマスはさまざまな宣伝を考えます。
アルバイトにアイルランド人紳士のコスプレをさせ、「リプトン家の孤児」と書いたリボンをよく太った豚2匹のしっぽに結んで連れまわさせて店の宣伝をしたり、店の入り口に凸面鏡、出口に凹面鏡を配置して、客が入ってくるときには痩せているように、帰るときには栄養がとれて太ったように見せるというアトラクションを設けたり、「チーズのお化け」と命名した大きなチーズを店頭に置き、中に数個の金貨を入れておいて、ラッキーなら切り取ったチーズに金貨が入っているという仕掛けをしたりしました。
これはおもしろいということで、多くの市民がトーマスの店に寄ってくるようになります。これを妬んだ人がネガティブな噂を流したりもしたのですが、トーマスはそれを逆手に取って宣伝をしたので、店の評判は上がるばかりでした。
1号店の開店から3年後には2号店が、その半年後には3号店が開店します。
はじめ、従業員といえばお手伝いの少年1人と猫1匹だったのが、10年後には従業員800人の大きなお店になりました。
宣伝以外でもトーマスはさまざまなくふうをしています。
そのころのお茶の売り方というのは、客の注文を聞いてからお茶の量を量り、袋詰めにして渡していました。この方法だと、立て込んできたら客は何時間も待たされる羽目になります。
リプトンは、紅茶をあらかじめ1ポンド、半ポンド、4分の1ポンドの袋に入れて店頭に並べて置き、注文に応じてその袋を渡して客を待たせないようにしました。袋にはまたロゴなども印刷して宣伝できるので、一石二鳥にもなったのです。
店の方針は徹底的な薄利多売です。そのころのお茶の値段は、頻繁に飲むには少し高すぎました。トーマスはできるだけ安く販売するために仲介人を介さず、少しでも安いルートを探して仕入れて大幅な価格引き下げを成功させます。
また、ブリテン島は地方によって水質が硬水だったり軟水だったりします。硬水でちょうどいい味の紅茶は軟水では渋味が強く、軟水に合った紅茶は硬水では気の抜けたような味になります。
そこでトーマスは、紅茶をさまざまにブレンドして、土地に合わせた紅茶を作って売り出しました。客にとっては、自分らの土地のために作られた紅茶だということで、郷土愛を意識させる飲み物にもなったのです。
1890年にはセイロンの茶園が売りに出されて農園主を探している、という情報を聞きつけ、トーマスはさっそく出かけます。そこで、手を入れれば将来性のある農園だと感じた彼は、即決で購入しました。
茶は斜面にはえており労働者がよく事故に遭っていたので、ここにロープウエイを設置して安全を確保します。摘まれた茶はすべてコロンボに集積、そこに建てた製茶工場で製造するのですが、工場では最新の機械を導入して効率化を図りました。
ここから、あの黄色の地に真赤なリプトンのロゴの入ったリプトン紅茶が世界へ出荷されていったのです。その時に、世界に向けて発信された宣伝文句が「茶園から直接ティポットへ」でした。
ティバッグをいち早く取り入れる
現在、紅茶のいれかたとしてはティバッグでいれるのが一般的でしょう。イギリスでも現在のティバッグの普及率は80%だそうです。
ティバッグはリプトンの発明ではありません。何事も合理的に考えるアメリカ人によるものでした。
そんななか、ある商人が容器代をケチって、より安い絹の小袋にかえたところ、これに感心した小売商が次の注文から袋も注文するようになります。
この小売商は、小袋ごと熱湯に入れてお茶をいれれば後片付けが楽だし、小袋を結んだ糸に紙切れをつけて、そこにロゴなどを印刷すれば宣伝にもなると考えたのでした。
お茶について中国や日本の伝統にあこがれ、その作法を学びたいと思うイギリス人にとっては受け入れがたい暴挙でしたが、リプトンは即刻導入します。
そして今では、イギリスでもティバッグのほうがメジャーになったのでした。
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おまけ
紅茶特集の最後に、おいしい紅茶のいれ方をご紹介します。
ひとつは、おいしいレモンティのいれ方、もうひとつは英国王立化学協会が提唱する「一杯の完璧な紅茶のいれ方」です。
いずれも『一杯の紅茶の世界史』(磯淵猛著、文春新書)に掲載されたものを引用しました。
・レモンティ
レモンティはアメリカで発明されたいれ方で、イギリスでは一般的ではありません。第2次世界大戦後、日本にレモンティが紹介されたとき、紅茶という舶来品が物珍しくまたレモンというおしゃれな果実がアメリカ的だというので、ミルクティより受け入れられやすくてすぐに普及しました。
しかしアメリカの硬水で飲むとさわやかなレモンティが、日本の軟水で飲むと渋みが増してしまいます。
私などは、こんなものだと思って気にもしないのですが、人によってはもっとおいしく飲めないものか、と思うかもしれません。
そこで……。
磯淵氏が紹介するレモンティのおいしいいれ方は次の通りです。
- レモンの輪切りを1枚用意し、果肉のところのみを包丁の先でくり抜き、カップにいれておく。カップの縁を、皮の部分でこすっておくとより香りが出る
- ティポットにセイロン茶のライトなもの(キャンディなど)を、ティスプーンで軽く2杯(一人分)入れる
- 1センチ四方のオレンジの皮を2枚用意し、軽く絞りながら、茶葉と一緒にポットに入れる
- ポットに沸きたての熱湯を50ccほど、勢いよく注ぎ、3~4分間蒸らす
- 時間がたったら、カップに注ぐ
ポットにレモンではなくオレンジの皮を入れるのは、オレンジのほうが皮のオイルの渋みが少ないから、というのがその理由です。
なお、アイスティの場合は、レモンを皮つきのまま入れてもオイルが出にくく、渋みも出ないようです。
・英国王立化学協会「一杯の完璧な紅茶のいれ方」
前話の最後に、イギリス人は紅茶を入れるときにミルクが先か紅茶が先かで論争することがあるとお話ししました。1980年に設立された英国王立化学協会は、2003年にこの論争にひとつの結論を出します。それでも納得しない人はしないでしょうけれど。
- アッサム紅茶のルーズリーフタイプ(損傷が少なく、雑物が入らず、茶を入れるとポットの中で、もとの葉の形になるもの)
- 軟水
- 新鮮な低温殺菌牛乳
- 白砂糖
〇器具
- 薬缶、陶磁器のポット、陶磁器の大きめのマグカップ、細かい目のストレーナー、ティースプーン、電子レンジ
- やかんに新鮮な軟水を注ぎ、火にかける。時間、水、火力などを無駄にしないよう適量を沸かすこと
- 湯が沸くのを待つ間、4分の1カップの水を入れた陶磁器のポットを電子レンジに入れ、1分間加熱し、ポットを温めておく
- やかんの湯が沸くと同時に、加熱したポットから湯を捨てる
- カップ1杯あたりティスプーン1杯の茶葉をポットに入れる
- 沸騰しているやかんまでポットを持っていき、茶葉めがけて勢いよく注ぐ
- 3分間蒸らす
- 理想的なカップは陶磁器のマグカップだが、あなたの好みのものでよい
- カップにまず先にミルクを注ぎ、続けて紅茶を注ぎ、おいしそうな色合いになるのを目指す
- 砂糖は好みで入れる
- 紅茶の飲みごろの温度は60~65度で、これ以上熱いと飲みにくく、下品なすする音をたてることになる
というものです。
化学協会によれば、ミルクを先に入れることを推奨していますね。
その理由としては、牛乳のたんぱく質は75度で変質してしまうからで、もし牛乳を熱い紅茶に注ぐと、少量ずつの牛乳が熱い紅茶に入ることになり熱変質が起こります。逆に冷たい牛乳に熱い紅茶が徐々に注がれれば牛乳の温度はゆっくり上昇するので、熱変質は起こりにくいということのようです。
茶葉に入れるお湯の温度も大事です。とにかくお湯が沸いたらできるだけ素早く、温度が下がらないうちに茶葉に勢いよく注ぐこと。これにはお湯に空気を多く含ませるという意味もあります。というのは、お湯に空気が多く含まれていると、まろやかさが増すからです。そのあとミルクなどで60度くらいまで温度を下げる、というのが「完璧」な紅茶をいれるコツのようですね。
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