第12話 エリザベス女王が「海賊国家」を目指したわけ(その3)ー イングランド国教会とカトリックの対立

2022/11/14

『ピーター・パン』 『宝島』 海賊 物語

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キャサリン・オブ・アラゴンと離婚したいという私的な思いから、ヘンリ―8世はイングランド国教会を設立して自分がその首長になり、離婚を成立させました。

当時巻き起こっていたプロテスタントによる宗教改革の流れを汲んで、イングランド国教会もプロテスタントという体裁をとっていましたが、ヘンリ―8世自身に思想的なものはなにもなく、本人はカトリックを信仰していたといいます。

しかし、この「プロテスタント」とカトリックの間に繰り広げられた宗教対立は深刻なものになり、その後のイングランドを大きく揺れ動かしていきます。

病弱な王エドワード6世(在位1547-53)と宗教対立

1547年にヘンリ―8世が崩御すると、唯一の息子であったエドワードがエドワード6世として即位します。当時、彼はまだ9歳でした。

そこで、サマセット公爵が護国卿に就いて国を運営していきます。

公爵はヘンリ―8世が果たせなかったスコットランドの乗っ取りを計画して、エドワードと5歳年下のスコットランド女王メアリーのふたりを、彼らが成人したときに結婚させるという約束を取り付けようと画策します。

しかしこの提案がスコットランドに拒否されたので、1547年に公爵はスコットランドに戦いを仕掛けます。ところがこの戦いにスコットランドの盟友フランスが介入して、イングランドは敗退。メアリー女王はフランスに連れ去られて、後にフランス皇太子フランソワ(即位後はフランソワ2世)と結婚、という結果になりました。

さらにイングランド内部でも反乱が起こって騒然とし、その責任を追及されてサマセット公爵は失脚。処刑されます。

後を引き継いだのが、枢密院議長のノーサンバランド公爵です。彼は強力にイングランド国教会のプロテスタント化を推し進めました。

しかし、サマセット公爵からノーサンバランド公爵に政権が交代する頃、エドワードは病床に伏せるようになります。もしこのままエドワード6世崩御ということになれば、次に王になるのはヘンリー8世の娘メアリーです。

メアリーが、カトリック教を国教とする超大国スペインと連合するアラゴン王国からきたキャサリン・オブ・アラゴンの娘だ、ということは覚えていらっしゃるでしょう。

つまりメアリーはカトリックに強い信仰心をもっていました。

もしメアリーが女王になれば、イングランドは再びカトリックに戻される。そうなったら国教会のプロテスタント化を推し進めてきた自分は失脚してしまう。そうノーサンバランド公爵は考えました。

恐れた公爵は一計を案じます。ヘンリー8世の末妹のジェーン・グレイを自分の息子のギルフォードと結婚させてプロテスタント系女王として擁立し、自分が権力を握るということを。

死の床にあったエドワード6世は、ジェーンを次期女王として指名し、1553年に息を引き取りました。

同年、ジェーン・グレイは女王として即位しました。ところが、メアリーがそうはさせじと行動を起こします。たちまちジェーンとノーサンバランド公を逮捕し、処刑してしまいました。

ジェーン・グレイは「9日間の女王」と呼ばれています。彼女を女王として認めていない歴史家もいるとのことです。

メアリー1世(在位1553-58)

ノーサンバランド公爵が危惧した通り、メアリーがメアリー1世として女王に即位すると、彼女はさっそくイングランドをカトリックの国に押し戻しました。まずヘンリー8世が制定した宗教関連の法律を撤廃する「廃棄法」を制定したのです。

さらに自分の強い意思で、カトリックの雄スペインの皇太子フェリペ(後のフェリペ2世)との婚約をすすめます。これには議会も反対しました。

というのは、当時、イタリアの覇権をめぐってフランスとドイツの間でイタリア戦争が長く続いており、その戦争にスペインも参戦するという公算が強くみられました。議会は戦争に巻き込まれるのではないかと危惧したのです。

フェリペ(左)とメアリー(右)
しかしメアリーはこの結婚に固執し、最終的には議会も承認せざるを得ませんでした。

1554年にふたりは結婚し、その年の暮れには「第2廃棄法」を制定して、イングランドを完全にカトリックの国としました。

この法案に反対したプロテスタント勢力に対して、メアリーは徹底的に弾圧します。1555年に宗教裁判を復活させてプロテスタントを取り締まり、メアリーが崩御する1558年までのわずか3年の間に、300人ものプロテスタントを火あぶりの刑の処しました。彼女がブラディ・メアリーと呼ばれるゆえんです。これがカクテルの「ブラディ・メアリー」の名前の由来だということは、以前お話しました。

1557年、フェリペとの結婚に際して、議会が危惧したことが現実になります。1556年フェリペ2世として即位したフェリペは宿敵フランスとの間で戦端を開き、イングランドにも参戦を要請しました。

メアリーはそれに応えてフランスに宣戦布告。しかし、結果は惨憺たるものでした。イングランドはフランスに大敗を喫し、大陸に唯一あった領土カレーを失います。

さらに、国内は大飢饉とインフルエンザ禍にさらされて20万人以上が落命し、女王自身も1558年にインフルエンザによって命を奪われました。

エリザベスを女王に

イングランドにとって幸運だったのは、メアリーとフェリペの間に後継ぎがなかったということです。そこで次期女王として浮上したのが、エリザベスでした。

しかし思い出してください。エリザベスはヘンリー8世の2番目の妻アン・ブーリンの娘です。アンはヘンリー8世に一時期は愛されましたが、後に不貞の濡れ衣を着せられて処刑されました。それにより、エリザベスはヘンリー8世の「愛人」の子として、王位継承権を剥奪されていたのです。

その彼女を復権させたのは、ヘンリー8世の最後の妻キャサリン・パーでした。

To be continued


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明治大学文学部を卒業した後、ラボ教育センターという、子どものことばと心を育てることを社是とした企業に30数年間、勤めてきました。 全国にラボ・パーティという「教室」があり、そこで英語の物語を使って子どものことば(英語と日本語)を育てる活動が毎週行われています。 私はそこで、社会人人生の半分を指導者・会員の募集、研修の実施、キャンプの運営や海外への引率などに、後半の人生を物語の制作や会員および指導者の雑誌や新聞をつくる仕事に従事してきました。 このブログでは、私が触れてきた物語を起点として、それが創られた歴史や文化などを改めて研究し、発表する場にしたいと思っています。

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