第13話 エリザベス女王が「海賊国家」を目指したわけ(その4)ーエリザベス女王即位

2022/11/23

『ピーター・パン』 『宝島』 海賊 物語

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ここまで、エリザベス女王が「海賊国家」を目指したわけについて、長々と前口上を述べてまいりました。やっと本番です。

かつてイングランドがヨーロッパ大陸にも領土をもち、フランス王国をもしのぐほどの勢力だったことがありました。12世紀半ばに即位したヘンリー2世が形成したアンジュ―帝国です。

スコットランド以南のブリテン島はもちろん、アイルランド島の一部、ノルマンディ、アンジュ―、ブルターニュ、アキテーヌを領土とし、ウェールズは自分のものにはできなかったものの、穏便な政策で影響力を強めました。

これだけ広大な土地をもっていれば、税収も莫大であったし物流も豊かだったでしょう。

ところがそんなアンジュ―帝国も、ヘンリー2世の子どもたちの、親に対する反乱、英仏百年戦争、内乱、フランスとの戦争の影響で領土は縮小していって、1558年には国土はブリテン島とアイルランド島の一部だけとなり、戦費がかさんで国家財政は底をついてしまいました。

当時のイングランドの主産業は羊毛と海産物くらいしかありません。こんな状態では借金を積み上げて運営するしかなく、エリザベスが統治するころには青息吐息の状態になってしまったのです。

こういった国家財政に加え、宗教対立による世情不安、イングランド乗っ取りを狙う大国の思惑といった悪条件のなか、イングランドが生き残るためにはなんとしても富国強兵を図らなければならない、というのが女王の立場でした。

そこで女王のとった戦略が、海賊にスペインの富を強奪させてその弱体化を図り、奪った富を転売して国を富ませるということだったのです。

また、エリザベス1世の周辺には彼女の命を狙う計画が常に渦巻いていたので、それを阻止するためにスパイ活動も活発化させました。

エリザベスの武器

このブログ「ラボ・ライブラリー研究<物語のむこうへ>」第11話でお話いたしましたが、エリザベス女王の父ヘンリー8世は男子の後継ぎを熱望してひとりしか得られず、じつに6人もの妻と結婚離婚を繰り返しました。

第12話で、イングランドをカトリックの国に戻そうとしてプロテスタント信者を弾圧し、ブラディ・メアリーとあだ名されたメアリー1世のことをお話ししました。彼女は、ヘンリー8世の最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンの娘、エリザベスもまた2番目の妻アン・ブーリンの娘だということで、ふたりは同じような境遇といえるわけですが、メアリーはエリザベスを憎んでいました。

まず、母親が離婚されたのは美貌のもちぬしアン・ブーリンのせいだと思い、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とばかりに、アンの娘のエリザベスに敵愾心をもっていました。

またヘンリー8世は、キャサリンを離婚するためにカトリックと決別してイングランド国教会を設立し、その首長に自分がなったわけですから、こんなものはまやかしだと思っていました。

そこでメアリーはプロテスタントの弾圧までして、強引にイングランドをカトリックに引き戻したのです。そんなことから、いつプロテスタント勢力がエリザベスを担いで反旗を翻してくるかわからないという事情もありました。

メアリーはエリザベスをロンドン塔に幽閉していつでも処刑できるようにしたのですが、これは私憤もあり保身もあっての処置でした。

エリザベスはどんなに悔しい思いをし、辛酸をなめたことでしょう。しかし彼女にはひとつの武器がありました。

キャサリン・パー
ヘンリー8世の最後の妻キャサリン・パーが、良妻賢母であったということは何度かお話しました。彼女はヘンリーのたった一人の息子エドワードに帝王学を教育する際、エリザベスも同席させたのです。エリザベスはめきめき才能を発揮し、語学も数か国語を操れるほどになっていました。

そんなエリザベスを、キャサリンは国王の「愛人」の子ではなく、王位継承権をもった娘として権利を復活させたのです。

そしてメアリー1世がインフルエンザによって死去すると、夫のフェリペ2世との間には後継ぎがいなかったことから、1558年、エリザベスに王位が巡って来たというわけです。

即位してからのエリザベスは、その才能を存分に発揮してイングランドを守り抜きました。

女王を取り巻く国際情勢

ヨーロッパでは、カトリックとプロテスタントの対立が深まっていましたが、同時に当時絶大な権力をもっていたハプスブルグ家とフランスの間で、一触即発の危機が迫っていました。

1556年、ハプスブルグ家のカール5世が引退すると、帝国の東側はオーストリア・ハプスブルグ家が、西側はスペイン・ハプスブルグ家が統治することになりました。一方、ヴァロア王家のフランスはドイツとフランスの国境をライン川まで拡大しようと画策していました。ハプスブルグ家とヴァロア王家の間にはきな臭い空気が流れていたのです。

メアリー1世はスペインに肩入れしすぎて戦争に巻き込まれ、カレーを奪われてしまいました。女王はその反省に基づいて、どちらの陣営にも組み込まれないように両国から同じ距離をとるべきだと考えます。

当時の王家同士の結婚は、即、同盟関係を結ぶことを意味します。美貌のもち主であったエリザベス女王はいろいろな国の皇太子から結婚を申込まれましたが、特定の国との関係強化を嫌い、一生独身であることを宣言して生涯それを貫いたのです。

おもしろいのは、女王は結婚しないことを宣言したにもかかわらず、一方でそれを武器に使っていたことです。スペインとフランスの両国に結婚の可能性をちらつかせて揺さぶりをかけました。

また、美貌が衰えて結婚が武器として使えない年齢になると、それぞれの国と対立するプロテスタント勢力を応援して力を拮抗させ、イングランドに目がいかないようにしたりもしました。

エリザベス女王は、なかなかの策略家だったようです。

メアリー・ステュアートとの戦い

女王暗殺計画はたくさんありましたが、そのなかで最も危険だったのがスコットランド女王メアリー・ステュアートを担いだカトリック貴族たちによるものでした。

メアリー・ステュアート
皆さんは、第10話でエリザベス女王の祖父にあたるヘンリー7世が、長女のマーガレットをスコットランド王に嫁がせたことを覚えていらっしゃるでしょうか。そのマーガレットの孫がメアリー・ステュアートです。見ようによっては、「愛人」の子どもであるエリザベスより、メアリーの方が王位継承者として正統に近いとも考えられます。

彼女はスコットランドの女王ですが、あまり幸せな人生ではなかったようです。

メアリー・ステュアートの半生

スコットランドとフランスは古くからの同盟国で、メアリー自身もフランス国王フランソワ2世と結婚しました。しかし1561年、世継ぎを残すことなくフランソワ2世は崩御します。メアリーは失意のうちにスコットランドに帰国。

しかし、そのころのスコットランドはフランスとの同盟関係を解消していて、メアリーがフランス王妃であったことなど重要視されませんでした。

またカルヴァン派のプロテスタント勢力が勢いを増していて、熱心なカトリック教徒であったメアリーとことごとく対立します。そしてスコットランド議会はカトリックを一掃し、カルヴァン派を基調とするスコットランド教会を発足させるまでになってしまいました。

また、スコットランドに戻って結婚したダーンリ卿は暗殺され、その後結婚したボズウェル伯爵が暗殺の張本人だということが発覚してスキャンダルにまで発展しました。このため、貴族から庶民にまでメアリーは反感をもたれるようになってしまったのです。

そこでダーンリ卿との間に生まれたジェームズが1歳でスコットランド国王として即位すると、メアリーはイングランドに亡命します。

エリザベス女王暗殺計画

そこに待ち構えていたのがカトリック貴族たちです。メアリーを担いでイングランドを再びカトリックの国にするべく暗躍を開始しました。メアリーとしても、かつてはスコットランド女王にしてフランス王妃であった立場から、イングランド王位継承権をもっているということだけが頼りの存在になっていたので、この動きに乗りました。

たびたびエリザベス女王暗殺計画が練られました。

しかし、その計画にメアリーも加担しているという動かぬ証拠をイングランドの諜報機関がつかみ、一味とメアリーは逮捕されます。

さっそく処刑が吟味されたわけですが、女王は処刑に関して乗り気ではなかったと伝えられています。メアリーとダーンリ卿との間にできた息子にジェームズと名前を付けたのはエリザベスでしたし、メアリーに敵意はもっていなかったそうです。

しかし枢密院が処刑を許可し、メアリーは1587年2月8日に城の大広間で44年の生涯を閉じました。

スペインがメアリーの仇討ちを

メアリーの処刑に対して、仇討ちを決意したのはカトリック教国の雄スペインでした。イングランドの海賊によりスペインの富がたびたび強奪されているということも、腹に据えかねてのことでした。

もちろん、海賊活動にエリザベス女王が関与していることは巧妙に隠されてはいましたが、うすうすスペインも感づいていただろうと思います。

イングランドとスペインの対決が、刻々と近づいていました。

To be continued


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明治大学文学部を卒業した後、ラボ教育センターという、子どものことばと心を育てることを社是とした企業に30数年間、勤めてきました。 全国にラボ・パーティという「教室」があり、そこで英語の物語を使って子どものことば(英語と日本語)を育てる活動が毎週行われています。 私はそこで、社会人人生の半分を指導者・会員の募集、研修の実施、キャンプの運営や海外への引率などに、後半の人生を物語の制作や会員および指導者の雑誌や新聞をつくる仕事に従事してきました。 このブログでは、私が触れてきた物語を起点として、それが創られた歴史や文化などを改めて研究し、発表する場にしたいと思っています。

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