第50話 『ハムレット』批評(その1)|シェイクスピア劇は低俗だ(新古典主義)

2025/06/08

『ハムレット』

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このブログも、海賊の話題から始まって、イギリス人必須の飲み物=お茶について、妖精の話と続いてきて、『夏の夜の夢』に至り、シェイクスピアが出たついでに『ハムレット』にまで踏み込んでしまいました。

シェイクスピア劇は膨大な数の研究者が研究し、今もその成果が続々と発表されています。

それを考えると、専門家ですら一生をかけても探求し尽せないシェイクスピア研究を、研究者でもない私がその解釈を語るなどという、まあなんとも畏れ多いことをやってきたものですね。

シェイクスピア研究は今後ともやっていき、いずれブログかあるいはYouTubeで取り上げることもあると思いますが、ここらで「妖精」に帰ろうと思います。妖精といえば『ピーター・パン』もまだ取り上げていませんしね。

しかしその前に、過去現在の批評家たちの『ハムレット』批評について、ざっくりと触れておきたいと思います。

取り上げるのは、新古典主義、ロマン派、ジョン・ドーヴァー・ウィルソンの批評という3大潮流をご紹介し、最後にラボ・ライブラリー制作でお世話になった河合祥一郎先生の解釈についても触れておきたいと思います(もちろん、氏の論の全貌を語り尽くせるものではないことをご承知おきください)。

ただ、一度に取り上げるにはそれぞれ長いので分けてお話します。まずは「新古典主義」から。

【目次】

○新古典主義者の主張(17世紀~18世紀)
・新古典主義による作劇の原則
・新古典主義の批評家たち
○ロマン派:新古典主義の制約からの飛翔

新古典主義者の主張(17世紀~18世紀)


中世、キリスト教が強い支配力を発揮し、重苦しい空気のために硬直していたヨーロッパの人々は、ルネッサンスの風を受けると古代ギリシア・ローマに関心を向けて行きました。

そして演劇の世界でも、古典への作劇法を研究する風潮が広まったのです。その結果、理性を重んじ形式を守ろうとする流れが生れました。

たとえば、ギリシア悲劇のなかでも古典中の古典『オイディプス王』(注1)は、新古典主義の人々に強くアピールしました。ギリシア悲劇で使われた原則が、新古典主義の批評家に、演劇は「かくあるべし」という主張をつくらせたのです。その原則とは次のようなものです。

新古典主義による作劇の原則

  • 三一致の法則の重視…三つの要素がすべて守られていること
    • 時間の統一
      • 劇で流れる時間は原則として24時間以内。リアルタイムで流れることを重視する。現代のドラマのように過去や未来に飛んだりしない
    • 場所の統一
      • 劇中の場所は一か所に限定。『オイディプス王』では、テーバイの王宮の門前一か所に限定される。舞踏会のシーンからいきなりバルコニーに移動してジュリエットの独り言を聞く、などということはありえない
    • 筋の統一
      • 劇の筋は一つだけに限定され、サブプロット(脇筋)などはない。『オイディプス王』では、国が荒れる原因となった「父親を殺し、母親と性的に交わる」というタブーを冒した者は誰かという探求をし、その結果、犯人は自分だったというプロットのみ。それ以外のたとえば、オイディプスの成長の物語などというものは、さしはさまれない
  • 悲劇と喜劇を明確に別ジャンルとして、両者を混ぜない
    • 悲劇のプロット
      • 成功者が最後には没落するという筋立て
    • 喜劇のプロット
      • はじめは惨めな存在だった主人公が、最後は成功して幸福になるという筋立て
  • 演劇というものは、観客に正しい生き方を教える役目をもたせるべき
  • 感情的なセリフはできるだけ排除し、理性的な表現を重視
  • 詩の形式や韻律、劇の構成などの形式的な美しさを重視

といった原則がありました。

これに対しシェイクスピア劇は、これらの原則がほとんど守られていません。

三一致の法則は守られていませんし、悲劇のなかに喜劇的な要素(たとえば『ハムレット』では、ポローニアスの俗物性、ポローニアス(を演じた役者)がシェイクスピア劇の『ジュリアス・シーザー』を演じたという楽屋オチなど)が混じっていたりします。同様にシェイクスピア喜劇においてにも悲劇的な要素が垣間見えます。

この事をもって、新古典主義の批評家はシェイクスピアの天才性は認めながらも、彼の劇は中途半端な、あまり上品ではないお芝居だ、と評する人が多かったのです。

新古典主義の批評家たち

左からジョン・ドライデン、アレキサンダー・ポープ、サミュエル・ジョンソン

新古典主義の代表的な批評家をあげておきますね。

ジョン・ドライデン(John Dryden 1361-1700)
この人は、シェイクスピアの天才性を認めてはおりましたが、シェイクスピア劇が古典的な原則に則っていないと批判し、粗野で未熟な部分があるとしました。

アレキサンダー・ポープ(Alexander Pope 1688-1744)
シェイクスピア劇を粗雑で不整合なところがあると批判しました。また、低俗なユーモアや、『ハムレット』に描かれたオフィーリアの狂乱や墓場のシーンなどのグロテスクな場面は趣味が悪いと嫌悪しました。さらに、シェイクスピア劇には誤りや不必要な要素があるとして、シェイクスピア作品を自分の解釈で校訂・編集したりもしています。

サミュエル・ジョンソン(Samuel Johnson 1709-1784)
サミュエル・ジョンソンは前述のふたりほどにはがんこではありません。劇の目的は観客を感動させることであり、劇の原則はそのための手段に過ぎないと考えたのです。

悲劇と喜劇が混在していることについても、人生には悲しみと喜びの両方起こることがあたり前だとして、劇においても両者が含まれていることは自然なのだとしました。

ただしシェイクスピア劇には、不注意による欠点や時代の趣味に合わない点があることを指摘しています。

ロマン派:新古典主義の制約からの飛翔


この新古典主義の考え方を推し進めていくと、人間はやはりその束縛から逃れたいと思う人、自由な演劇もすばらしいと思う人が出てくるのは自然なことのように思われます。

それが、ロマン派の批評家たちでした。彼らはそういった規則・形式に縛られず、人間の心情の揺らぎなどの「中身」に焦点を当てました。

『ハムレット』についても彼の心の動き、とりわけ「なぜハムレットは復讐をためらうのか」という点に議論が集中したのです。

次のお話では、そのロマン派の批評家たちについてお話しします。

**********

(注1)『オイディプス王』

古代ギリシアのソフォクレスがつくった悲劇です。どのような内容なのかを以下に記します。

ざっくりいうと、この物語は自らの運命から逃れようとしながらも、知らぬ間に神の予言を成就させてしまう男の悲劇です。

(内容)

テーバイの王ライオスと妃イオカステの間に男の子が生まれますが、二人はデルポイの神託により、その子が成人すると父を殺し母を犯すだろうということを知ります。

これを恐れた二人は、臣下にわが子を山中に連れて行って殺すことを命じます。臣下は彼の両足のかかとを串刺しにし、担いで行きました。この時に受けた傷あとがオイディプス(晴れた足)の名の由来になっています。

しかし、オイディプスを殺すことをためらった彼は出会った羊飼いに子どもを預け、その羊飼いはその子をコリントスの王に献上します。彼はコリントスの王子として育てられました。

オイディプスが成人した時、彼はデルポイの信託により父を殺し母を犯すという将来が待っているということを知ります。これを恐れたオイディプスはコリントスを離れます。

旅の途中で彼はならず者たちに出会い、戦って相手を殺します。しかし、ならず者と思った相手は、彼の実父ライオスだったのです。それを知らないオイディプスはテーバイにたどり着き、未亡人になってしまったイオカステと結婚します。

その頃テーバイは、疫病が蔓延して民が次々に死んでいました。それを憂いたオイディプスは、デルポイの神殿にお伺いを立てます。その神託は「国を汚している先王ライオスの殺害犯を見つけ出し、追放せよ」というものでした。

テーバイには、王は三叉路のところでならず者に殺されたと知らされていました。オイディプスは、その犯人を徹底的に調べ上げます。

その最中に、コリントスから王が亡くなったという知らせが舞い込みました。自分が父を殺してしまうのではないかと危ぶんでいたことが考えすぎだったと知り、オイディプスはほっと胸を撫で下ろします。幸せの絶頂ですね。

しかしその直後に彼は、悲劇のどん底に突き落とされます。というのはおしゃべりな羊飼いによって真実が語られたからです。

この羊飼いはコリントスの王にオイディプスを献上した、あの羊飼いでした。その話により、オイディプスは自分がライオスとイオカステの息子であったことを知ります。つまり、自分は父ライオスを殺し、母イオカステと結婚してその不倫で床を汚したことを知るのです。

イオカステは首をくくって自殺し、目開きでありながら何も見えていなかったことの罪に苛まれたオイディプスは、イオカステのブローチで自分の目を突いて盲目となり、本当なら赤ん坊の頃に捨てられるはずだった山へ向かって行きます。

幸福の絶頂から悲劇のどん底に突き落とされる急転直下の展開の見事さから、ギリシア悲劇の中でも傑作中の傑作といわれるのが、この『オイディプス王』です。

場所もテーバイの宮殿から一歩も出ることはなく、時間もリアルタイムで動いていくという三一致の法則が効いている古典劇です。新古典主義者が惹きつけられたのも当然でしょう。


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明治大学文学部を卒業した後、ラボ教育センターという、子どものことばと心を育てることを社是とした企業に30数年間、勤めてきました。 全国にラボ・パーティという「教室」があり、そこで英語の物語を使って子どものことば(英語と日本語)を育てる活動が毎週行われています。 私はそこで、社会人人生の半分を指導者・会員の募集、研修の実施、キャンプの運営や海外への引率などに、後半の人生を物語の制作や会員および指導者の雑誌や新聞をつくる仕事に従事してきました。 このブログでは、私が触れてきた物語を起点として、それが創られた歴史や文化などを改めて研究し、発表する場にしたいと思っています。

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