このようなイメージの妖精に変わる前は、妖精は目に見えない世界に棲んでいる恐ろしい精霊で、人間の運命すら変えてしまうほどの力をもつモノノケのような存在でした。
恐ろしい妖精を「小さくて憎めない妖精」というイメージに変えて定着させたのは、シェイクスピアの『夏の夜の夢』ですが、彼が最初というわけではありません。14世紀にイタリアで勃興し、後にルネサンスと名付けられた大きなムーブメントが妖精たちにも強く影響して、恐ろしいモノノケという妖精のイメージをがらりと変えていったのです。
このルネサンスによって東方文化との交流やヨーロッパ内の各国との交流が盛んになったことによって、迷信だらけの世界で生きていたヨーロッパの人々の魂はその無知蒙昧から解放され、物事を合理的に見ようとする目を与えられたのです。
妖精が変化した背景
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ドゥオーモ広場とサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂 |
妖精という存在は、ずっと恐ろしい存在と思われてきました。それが、シェイクスピアが活躍するころになると、妖精に対する意識は大きく変化します。
例えば、バンシーという妖精はずっと一軒の邸宅にとどまり、そこの主人が亡くなったりしたときに泣き叫んだり、経帷子を川で泣きながら洗ったりする不吉な妖精とされていました。また、『夏の世の夢』に登場するパックのモデルとなったプッカ(様々な名前があり、パックと呼ぶ地方もあります)は、ロバなどのいろいろなものに変身し、旅人を騙して自分に乗せ大暴れして、最終的には旅人を湖に沈めたりしました。(第33話参照)
妖精がよくやる行動に「取り換え児」があります。これは健康な幼児をさらい、代わりに木切れや老衰を迎えた妖精を置いてきたりすることです。『夏の世の夢』の冒頭で、オーベロンとティターニアがインドから連れてきた少年をめぐって大ゲンカしますが、これは「取り換え児」行動によって連れてきた少年ですし、ラボ・ライブラリーの物語『グリーシュ』で主人公と妖精たちが少女をさらいに行くのもこの「取り換え児」をふまえていました。
このように不気味で正体不明の妖精を農民たちは恐れていましたが、時に家や納屋を掃除してくれたりすることもあったりして愛すべき一面もあります。そこで農民たちは「ロビン・グッドフェロー」などというように名前を変えて呼んだりして、妖精を怒らせないようにしていました。
聖職者などの知識人はキリストの教えを広めて、このような迷信めいた民間宗教を払拭しようと試みたのですが、それはなかなか難しかったのです(アイルランドは例外で、キリスト教を広めた聖パトリックなどの聖人たちは民間宗教を尊重し、けして排除しようとはしませんでした)。
ところがシェイクスピアが活躍する16-17世紀になると、恐ろしい妖精を信じている人々は少なくなります。妖精王と女王が嫉妬に狂って大ゲンカするような下世話な存在にされたり、パックのように失敗をやらかすけれども陽気にごまかす要領の良さを兼ね備えた憎めない存在に「貶められ」たりしても、人々は妖精の復讐を恐れて震えあがるということはなくなったのです。
このような大きな変化を与えた要因というのがなんだったのかというと、それはルネサンスというムーブメントが起こした意識改革でした。
ルネサンスが起こった要因とその影響
ルネサンスが起こった直接の要因は、11世紀に始まった十字軍の東方討伐です。
表向きの大義名分は、セルジュール・トルコが聖地イェルサレムを占領したので、そこを奪還しなければならないというものでしたが、その裏に略奪という目的があったというのは、今日の定説となっています。
ルネサンスはイタリアから起こりましたが、サラセン帝国の脅威を強く感じていたのは、このイタリアだけでした。
東方の文明へのあこがれとその影響
現代的な感覚からいうと、あまり実感がないかもしれないのですが、当時、アラビアをはじめとするインドや中国などの東方文明は、ヨーロッパ文明に比べると桁違いに先進的でした。
地中海周辺はサラセン帝国にどんどん占領されていましたし、東方諸国との接触で見聞きする文明のまばゆさに、イタリア人は羨望とともに恐怖を感じていたのでした。
東方文明に触れることで変わった生活様式は、例えば以前は家の中で暖炉に火を入れれば部屋中煙だらけになっていたのですが、煙突をつけることで解決できることを知りましたし、床にじゅうたんを敷いて快適に過ごすことも覚えました。アラビアの文明を知るまでは、そんな不自由な生活をごく当たり前と考えていたのがヨーロッパ諸国なのでした。
イタリアはベネツィアやフィレンツェといった都市を中心にして、東方との貿易を独占的に始めました。そのなかでとくに大きな利潤をもたらしたのは、コショウを中心とした香料の貿易です。
コショウは、生産地ではほとんどタダのようなものですが、輸送にはとんでもなく長い時間がかかって危険もあり、盗賊や天変地異による損失も多くあって、無事に商品が届くのは出荷時の量に比べてごくわずかでした。それに加えてヨーロッパに到着するまで多くの仲買人が介在して値段をつり上げ、商売を独占していたイタリア商人も巨額のマージンをとったため、ヨーロッパ内ではコショウが高額で取引されていました。
『ふしぎの国のアリス』で、侯爵夫人の料理人が高価なコショウの袋を豪快に振り回し、周りの人々の咳が止まらなくなるほど部屋にまき散らすシーンがあります。これは当時の人々にとって、日頃のうっぷんを吹き飛ばすような強いインパクトがあったのではないでしょうか。
さらにアラビアの文明の特徴は、科学的なものの見方です。迷信にとらわれることなく、数学などの知識に熟知し、芸術面でも計算から導き出した緻密なモザイクを生みました。科学的に実験するための道具なども多く発明されていました。
ヨーロッパ文明を覆っていた、目に見えない精霊が人間の運命をほんろうするといった迷信的な考えは東方文明との交流によって薄められ、もっと科学的な目をもって物事を見るという姿勢がヨーロッパにもようやく芽生えてきたのでした。
また、さまざま文物がヨーロッパ世界に流通するようになると、ヨーロッパ内の文化も伝播するようになります。イギリスではギリシャ/ローマの言語や文化を学ぶ機会が増え、かの地の文化や学問を、ラテン語や英語に翻訳しようとする機運が起こりました。
そこで起こってくるのが翻訳の問題です。ギリシャ神話に出てくるニンフ(ニュムペー)は水の精や樹木の精などなのですが、それらはイギリスに古くから想像されてきた妖精とは違う(注1)ものです。しかし翻訳のしようがないので、これらをすべて妖精(フェアリー)と訳しました。
もうこの時点で「恐ろしい妖精」というイメージは薄められ、新しい妖精像にもとづく物語も生まれてきたのです。
中世後期~ルネサンス期のイギリスの妖精
人間臭い妖精を創造しそれを芸術的に高めたのはシェイクスピアですが、彼が古来とは違う妖精をつくりだした最初の人ではありません。人間臭い妖精を登場させた作家の代表として『カンタベリー物語』(1387 – 1400)を著したジェフリー・チョーサー(1340? – 1400)や『妖精の女王』(1590 - 1596)を著したエドモンド・スペンサー(1552? - 99)といった人たちがいます。
『カンタベリー物語』の妖精
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『カンタベリー物語』岩波文庫 |
この物語はとても下世話な話ではあります。大金持ちの貿易商人であるジャニュアリーが年老いて若いマイを女房にしたのですが、ジャニュアリーは盲目となってしまいます。女房のマイはそれをいいことに、若い従僕のダミアンと浮気をするという話です。
マイとダミアンが密会しているところを、プルートーがジャニュアリーの眼を開かせて事実を見せるのですが、一方、プルートーの妻のプロセルピナがマイに弁舌の才能を与え、「ジャニュアリーの盲目を治療するには男と戯れることが一番だと教えられた」と自己弁護をさせて仲直りをさせ、めでたしめでたしとなるというものでした。
この物語は、このような出来事を起こさせたのが妖精王と女王の戯れによるものであり、それを解決させるために妖精のもつ魔法を使うというお話になっています。
チョーサーは、妖精を人間と親しく交流し、人間の生活に干渉する存在として創造したのでした。もはやここには「恐い妖精」の面影はありません。
『妖精の女王』の妖精
中世からルネサンスにかけては、抽象的な概念を具体的な物や人物に託して描く物語が流行しました。わかりにくい言い回しですね。すみません。
たとえば「恋愛」という概念を具体的な「バラ」という花に託し、数々の困難を乗り越えて「バラ」に口づけする、という当時流行した物語があります。『ケルト妖精学』の著者の井村君江氏は、こういった物語の代表として、中世フランスの韻文ロマンス『薔薇物語』を取りあげて、次のように解説しています。
恋する女性を「薔薇」に喩え、「危険」と「悪口」と「羞恥」と「恐怖」に厳重に見張られている囲いから、愛人は「愛の神(ヴィーナス)」の助けを借り、「歓待」に導かれて「慈愛」と「哀憐」の同情を得て「薔薇」に口づけ出来るという「恋愛技巧論(デ・アルテ・アマンテ)」ともいえる物語である。(井村君江『ケルト妖精学』)
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『妖精の女王』ちくま文庫 |
この物語は妖精の女王グロリアーナが年に一度、12日間の大宴会を催し、12人の高潔な騎士を一日一人ずつ武者修行に出す、という筋書きです。
騎士たちはそれぞれ悪をほろぼし手柄をたてていきます。主人公の一人プリンス・アーサーは有徳の人で、グロリアーナの幻影を見て遍歴を続け、12人の騎士を助けるという設定になっています。
この物語は、時の女王エリザベス1世にささげられたものとされており、グロリアーナはエリザベス女王を、プリンス・アーサーはエリザベスを内政・外交にわたって助けた重臣フィリップ・シドニーあるいはレスター伯を象徴しており、それぞれ完成された徳をもつ人物として描かれています。
とくに妖精の女王(エリザベス女王)はグロリアーナ(栄光)と呼ばれていますが、ほかにもベルフィービ(優美)、シンシア(月の女神)、ブリトマート(清純)、マーシラ(慈悲)とも呼ばれ、最高の徳と地位と美を体現する女性として賛美を惜しみません。
一方、12騎士が滅ぼす「悪」には、「虚偽」と「悪」の象徴デュエッサ、高慢なルシフェーラなどといった怪物を登場させていますが、前者はエリザベス女王に対して常に暗殺の手を伸ばしていたスコットランド女王メアリー・ステュアート、後者はエリザベス女王の異母姉メアリー1世=ブラッディ・メアリー(注2)だとされています。
このようにある人物を妖精に仮託してつくる物語の傾向は、『夏の世の夢』にも影響を与えています。たとえばグロリアーナ(エリザベス女王)は、月の女神としての属性を与えられていますが、これは『夏の夜の夢』のティターニアの属性に影響を与えています。このことについてはまた、別話で取り上げたいと思います。
まとめと次話の予告
中世ヨーロッパ世界の人々は、目に見えない精霊や妖精に支配され、それによって運命が左右されるという迷信のなかにいました。
しかし11世紀に始まる十字軍遠征によって東方の国々との文化交流が起こると、人々は科学的にものを見るという姿勢が芽生えてようやく迷信の闇を逃れ、ルネサンスを迎えます。加えて自分たちよりはるかに先を行っている東方の文明に触れ、あこがれるようにもなりました。
この新しい時代の波は文化/文明に大きな変化をもたらします。中世ヨーロッパを覆っていたキリスト教による禁欲的な文化のあり方は薄くなって、東方文化、ギリシャ/ローマ文化、古くからある民間伝承といったものにも目が向くようになりました。つまりルネサンスですが、それがシェイクスピア劇にも大きく影響しています。
次話からは、ルネサンスの風がつくりあげた『夏の世の夢』の妖精たち、つまりオーベロン、ティターニア、パック、小さな妖精たちについてお話していきます。
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(注1)ギリシャ/ローマ神話のニンフ(ニュムペー)は妖精(フェアリー)と違う
ニンフが妖精と似ているところは自然の精霊であるというところと、歌や踊りが好きだという点です。しかし、イギリスを含むケルト世界の古来の妖精は男性も女性もいますが、ニンフは女性しかいません。
『イーリアス』『オデュッセイア』という偉大な叙事詩をつくったホメロスは、ニンフを次のように定義しています。
彼女たちは山川草木、場所、地方、国、町などの擬人化された女神で、若く美しい女性であり、ゼウスの娘たちである。彼女らは長寿ではあるが不死ではない。たとえば樹木の精はその木とともに生命を終える。彼女たちは歌と踊りを好む。
妖精は山川草木や町といった「何か」の擬人化ではなく、いたるところに存在していたずらをしたり、人間の運命を狂わせたりするものですし、ましてやゼウスのような強大な神の子というわけでもありません。
ニンフは美しく、悪意をもちません。むしろ神々の気まぐれにほんろうされるような、か弱い存在ですらあります。
(注2)異父姉メアリー1世
メアリー1世の母は、キャサリン・オブ・アラゴンという当時のヨーロッパ最強国でカトリックの雄だったスペインの王女でした。
一方エリザベスは、キャサリンの後にヘンリー8世が妻として迎えたアン・ブーリンの娘です。
ふたりの父親のヘンリー8世は、キャサリンと離婚するためにカトリックと縁を切り、イングランド国教会というプロテスタントもどきの教会(儀式などはほとんどカトリックですが、その最高位を法王ではなくイングランド国王としたというところが違います)を打ち立てました。(第11話参照)
ヘンリー8世が存命の間は、イングランドはプロテスタント系のキリスト教国でしたが、メアリー1世の治世ともなると、そんなことを許すメアリーではありませんでした。というのは、彼女はカトリック教国スペイン王家の血を引いていたからです。
彼女はイングランドを強力にカトリックに引き戻そうとして、プロテスタント系の僧侶を弾圧し何百人も処刑しました。エリザベスもイングランド国教会の洗礼を受けた人でしたから、反旗を翻されることを恐れてロンドン塔にエリザベスを幽閉し、処刑の機会を狙っていたということです。(第12話、第13話参照)
●参考にした図書
『ケルト妖精学』井村君江・著 講談社
井村氏は、1965年東京大学大学院比較文学博士課程修了し、明星大学教授です。イギリス・アイルランド・フォークロア学会終身会員。
井村氏は「妖精学」を確立するために、この本を書かれました。そのため、妖精の分類や成り立ち、時代の移り変わりによる妖精のイメージの変遷など、妖精に関するあらゆることを網羅して書かれています。
『世界の歴史12 ルネサンス』会田雄次/中村賢二郎 河出書房新社
2010年に出版された、河出新書書房の世界史シリーズの1冊。ルネサンスがなぜ起こったのかということが、この本を読むことによってよくわかりました。ルネサンスは人間復興と訳され、なにやら希望に満ちた時代の幕開けのようなイメージを持たせますが、内実は真反対で、たいへんドライで厳しい時代だったことがわかります。
イタリアが東方との貿易を独占したため、独り勝ちの様相を呈し、他国は置いてけぼりを食わされますが、それがスペインやポルトガルのなどの国々による新航路発見に向かわせ、アメリカ大陸発見やアフリカ最南端の喜望峰を回る航路の発見、日本へのキリスト教布教の試みなどにつながっていきました。
後半には宗教改革のことも詳しく書かれていて、興味深いものでした。この宗教改革が『ハムレット』の物語の主題に大きく結びついているということも発見できて、興奮しました。著者の会田雄二氏の、少しべらんめえがかった書き方もおもしろかったです。
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