第46話 『夏の夜の夢』|女王へのわだかまりの払拭(考察)

2024/07/26

『夏の夜の夢』 シェイクスピア ラボ・パーティ ルネサンス 物語 妖精

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ウィリアム・シェイクスピアの生家

今話は、『夏の夜の夢』はシェイクスピアに癒しをもたらしたのではないか、という私の考察のお話です。私の知っている限り、同じことをいったり書いたりしているシェイクスピア研究者はいません。ですので、これはまったく私一人の浅慮であろうと思います。あらかじめそこをお含みおきください。

なぜそのような考えに至ったかというと、エリザベス女王(1533-1603)の下した決定がシェイクスピア一家を没落させる一因になったというところがあり、シェイクスピアが彼女に恨みをもっても当然ではなかったかと思うからです。しかしその一方で、彼は女王に思慕にも似た感情を抱いていたようにも思えます。

今話をお話しするにあたってまず想像したのは、このまったく相反する感情を抱きながらシェイクスピアはずっと苦しんできたのではないか、ということでした。そして、水と油に似たふたつの感情を和解させるひとつの解答が、『夏の夜の夢』ではなかったかと思うわけです。

『夏の夜の夢』に登場するティターニアは、妖精女王という役割を与えられ矮小化されていますが、もとはギリシア神話でいうところの処女神アルテミス、ローマ神話のダイアナです(第43話参照)。

エリザベス女王は生涯独身を貫いた王。そしてアルテミスは処女の冷酷な潔癖さをもった輝ける月の女神。そこで、アルテミス(ティターニア)をエリザベス女王に見立てた形で登場させる物語やお芝居は、当時たくさん生まれました。それらの物語に出てくるティターニアは、グロリアーナ(輝ける者)などといった異名をもつ、女王を讃える存在になっています。

そのティターニアが、『夏の夜の夢』ではロバ頭のボトムにメロメロになり、笑い物になっているのです。考えようによっては、これほど不敬なことはないでしょう。

しかし前号でもお話ししましたように、女王はこの物語に癒されると感じたからこそ微笑みながらこの物語を鑑賞したのでしょうし、そのことによってシェイクスピア自身も幸せな気持ちになれたのではないかと思うわけです。

そのような気持ちになれる前提条件として、この劇が「みんな愚かでみんな良い」というテーマを根底にもっているということがあります。だから、女王も寛大な気持ちをもてたのではないかと思いました。

パックが「ほんと人間って、なんて馬鹿なんでしょ」と愛情をもってつぶやくとき、シェイクスピアは「愚か者のひとりである女王」に対しても愛情を抱き、わだかまりを消し去ったのではないかと思えてくるのです。

今話は、ウィリアム・シェイクスピアの失踪の原因となったシェイクスピア家の成功と没落の経緯とエリザベス女王の隠された弱さをお話しし、女王の思いをシェイクスピアが知ることで女王に心を寄せて『夏の夜の夢』を書いたのではないか? という考察をお話ししてみたいと思います。

シェイクスピアの父、ジョンの成功と没落


シェイクスピアの父ジョンは、手袋職人、皮なめし職人としてキャリアを始めました。副業として羊毛仲介業者や金貸しもやって財を築き、1556年、彼が25歳の時にストラッドフォード・アポン・エイヴォンのヘンリー通りに家を買います。彼は上昇志向の強い人間で、お金と名誉を渇望する人でした。

その思いは翼をつけ、出世街道を駆け上っていきます。

  • 1556年=初めて町の役職(町で作られるエール酒やパンの品質を吟味する役)に就く
  • 1557年=地元の名家アーデン家の娘メアリを妻に迎え、成功者とみなされる
    • 当時、名家の娘と結婚する男はその家柄と釣り合う人物でなければならないというのが常識だった。そこでジョンはアーデン家にふさわしい人間、すなわち成功者とみなされた
  • 1558年=町の巡査を勤める(巡査は持ち回り制)
  • 1559年=罰金の料金を決める科料認定係を勤める
  • 1561年=町の歳入歳出と財産を管理する会計係に就く
  • 1565年=14人で構成される参事会員に選出される
  • 1568年〜1569年=ストラッドフォード・アポン・エイヴォンの町長を勤める
  • 1569年=町長の任期が終わると主席参事会員に任命され、同時に助役として新町長を補佐。紳士(ジェントルマン)階級となろうとして紋章院に紋章を申請

紳士階級というのは、現代のいわゆる「紳士」ではなく、貴族の一番下の階級である男爵と平民の最高位である郷士との間にある階級です。

紳士階級は本来世襲制ですが、平民でも高額な手数料を積めば紳士になることは可能でした。しかし、この話は突然立ち消えになります。その原因は、一家は莫大な借金を抱えることになったから、といわれているのです。

幼・少年ウィリアムの華麗なる暮らし

ウィリアム・シェイクスピアは、生まれた時から父親の出世していく姿をそばで見、なに不自由ない幼年・少年時代をすごしました。

1565年、ウィリアムが1歳のとき、ジョンは参事会員に選ばれました。聖日や公の祭日には、父は黒い毛皮のガウンを着、指にメノウの指輪をはめて出かけます。

ウィリアムが4歳になった1568年に、父は町長に就任しますが、町長は治安判事も兼任するというとても権威のある役職でした。父は深紅のガウンをまとい、町役場に出かける時には職杖をささげた従者を先導させるというものものしさです。

1569年には、女王一座(注1)とウスター伯一座の旅役者がやってきています。少年はおそらく町長のご子息として特等席に座って観覧したことでしょう。

町にやってきた旅芝居はこれだけにとどまらず、1573年にはレスター伯一座が、1575年にはウォリック伯一座やウスター伯一座が町に訪れました。ウィリアムはこれらのお芝居を観ただろうことは想像に難くなく、彼が演劇人になってから大いに役立ったことでしょう。

1575年にはまた、ウィリアムは衝撃的な体験をしたと考えられています。それはエリザベス女王の行幸を目の当たりしたことでした。

この年、女王は恒例の行幸として中部地方を訪れ、レスター伯ロバート・ダドリーの居城に19日間滞在しました。その時ウイリアムは、参事会員だった父に連れられて式典を観に行ったのではないか、と考えられているのです。

その式典に費やされた費用は1日1000ポンドといわれています。ウィリアムが晩年、成功者として故郷に凱旋したときに町で2番目の豪邸を購入しましたが、その時の代金が60ポンドでした。その20倍近くの金額を1日で費やすというのですから、式典の豪華さは推して知るべしでしょう。女王の衣装も式典の演出も少年に与えた衝撃は相当なもので、女王に強い憧れをもったに違いありません。

またこの年に、ジョンは40ポンドで庭園と果樹園付きの邸宅を購入しましたが、このエピソードが示すように彼の人生は絶頂期を迎えていました。

しかしこれがジョンを家長とするシェイクスピア家の最後の輝き。その後、急転直下で没落していきます。

父の没落

シェクスピア家没落の兆しが現象として現れたのは、1577年のことです。ジョンが突然、町議会に出席しなくなったのです。出席しなければ罰金が課せられるのですが、免除されています。また参事会員は、貧民救済のために週4ペンスを徴収されるのですが、1578年にはジョンはそれも免除されました。

これは、シェイクスピア家が経済的に困窮していることを同僚たちが理解し、同情してもいたことをあらわしています。

なぜ彼は窮地に陥ったのか。その理由のひとつにイングランドの宗教問題が関係しています。

これまでもさんざんお話ししてきたことですが、エリザベス女王の父ヘンリー8世は自分の離婚を強行するためにローマ教皇と縁を切ってイングランド国教会を設立し、国王が現世における最高権威者と自ら規定して離婚を成立させました(第11話参照)。

ヘンリー8世崩御後、国教会設立に反発していた長女メアリが即位すると、強烈なカトリック教徒であった彼女はイングランドをカトリックの国に引き戻し、国教会の聖職者を弾圧してブラディ・メアリ(血のメアリ)と呼ばれました。

そのメアリがインフルエンザで死亡するとエリザベスが即位し、再び国教会を復活させます。

エリザベス1世はカトリックとの融和を図ったり、プロテスタントの皮を被ったカトリックにすぎない国教会を、宗教として整えたりといった努力をしました。しかしカトリックの雄スペインに飲み込まれそうになったり、自分がカトリック勢力に頻繁に命を狙われたりすることに恐怖を感じ、カトリック排除に乗りだします。

メアリ1世はブラッディ・メアリといわれるほど国教会の信徒を惨殺しましたが、じつはエリザベス1世も同じくらいの数のカトリック教徒を処刑しています。その津波が、ストラッドフォード・アポン・エイヴォンにも押し寄せたのです。

民衆は、為政者が「右向け右!」と号令をかけたところで、そう簡単に心変わりするものではありません。この田舎の人々は先祖代々カトリック教徒でした。ですから、国教がイングランド国教会になろうがカトリックに戻ろうが、彼らの信仰はカトリックだったのです。

以前はどんなキリスト教を信じようが、なあなあで仲良くやってきた町の人々なのですが、1576年4月にエリザベス女王が統一法(注2)の徹底強化を打ち出すと、カトリックへの締め付けが厳しくなってきました。

そしてストラッドフォード・アポン・エイボンにも取締り官がやってきます。悪名高いサー・トマス・ルーシーです。

彼は権力を笠にきて横柄に振る舞う男でした。当然、町の人々には鼻つまみ者と揶揄されましたが、それがさらに彼を激昂させたようです。弾圧は悲惨なものにエスカレートしていきました。

そのルーシーが参事会員であるジョンに、カトリック信者のリストを提出するように命令した可能性があります。しかし彼が親しくしていた友人の多くはカトリック教徒です。彼が町役場に行かなくなったのは、友達を売るようなことができなかったからかもしれません。

当時の、カトリック信者だとして摘発された人の処刑がどれほど恐ろしいものであったかは、想像を絶します。ここでは触れるのもおぞましいので説明しませんが、詳しくお知りになりたい方は『シェイクスピア』(河合祥一郎・著)をご参照ください。

古代ローマでは、公衆の面前で罪人の手足それぞれに馬を結びつけ、馬にムチを当ててばらばらの方向に走らせ、手足を引きちぎるという刑罰がありましたが、この刑が慈悲深く思えるほどなのです。

その恐怖は、シェイクスピア家の身近なところにまで迫っていました。

先ほど、ジョンの妻のメアリは名家アーデン家の出身と申しあげました。アーデン家は代々敬虔なカトリック教徒です。

そのアーデン家に悲劇が襲ったのは1584年のことでした。

それは、アーデン家の娘婿ジョン・サマヴィルが、エドストーンという村で「カトリックの教義を貫くためにエリザベス女王を射殺する」と公言して逮捕されたことが発端になりました。これを機に、かねてアーデン家に目をつけていたトマス・ルーシーは同家を家宅捜索し、そこでカトリックの司祭をかくまっていたという罪で、家長のエドワード・アーデンも逮捕。同年12月30日に、彼はあの残虐極まりない方法で処刑されます。

エドワードは、ウィリアムの母メアリのまたいとこにあたります。結局、彼女に嫌疑がかけられることはなかったのですが、いつシェイクスピア家に捜査の手が及ぶかわからない日々を送りました。

嫌疑がかかれば、拷問に次ぐ拷問で自白を強要され、極刑はまぬがれません。白か黒かが問題なのではなく、嫌疑がかかるかかからないかが問題だったのです。ジョンもとても政務どころではなかったのではないかと思います。

ウィリアムの身近にも、この処刑を受けた人がいます。彼が通ったグラマースクールで教鞭をとっていたトマス・ジェンキンズ先生の恩師エドマンド・キャンピオン、ジェンキンズ先生の後任のジョン・コタム先生の弟トマス・コタム、ジェンキンズ先生の前にウィリアムを教えていたサイモン・ハント先生。いずれもカトリックの一派であるイエズス会の会士あるいは修道士として活動したために極刑に処されました。

不運な時には不運が重なるもので、運命はシェイクスピア家に過酷な試練を与えています。

  • 1570年代にイングランドは羊毛不足に陥っていたが、1577年にその原因を羊毛仲介業者が在庫を意図的に出さないという不正を行っているからだとされて、100ポンドの支払いが命じられた。羊毛仲介業者でもあったジョンに、支払い義務が発生した可能性がある。1575年にジョンは60ポンドで庭つき果樹園つきの豪邸を購入したことを考えれば、100ポンドというのは法外な金額。
    • この義務を果たすためか、1578年に妻メアリの姉の夫エドマンド・ランバートから40ポンドの借金をしている
    • 1579年には、スニッターフィールドの土地を売却
  • 1579年に一番年下の娘アンが死亡
  • 1580年に法廷に出廷して保証金を払わなかったという名目で、40ポンドの罰金が追加
  • 度重なる巨額の出費のためジョンは不動産を担保にして、親族からの借金を重ねる
  • ジョンは職を失い、シェイクスピア家は借金まみれになり、ウィリアムも無職で収入のあてもないのに、1585年に妻アンとの間に双子が生まれる。その後、シェイクスピア家は11人家族の大所帯になったが、相変わらず収入はなかった
  • 1588年、父ジョンは町の参事会員の名誉を剥奪される。
  • 家や土地を担保にして借りたお金のことで親族とトラブルになり、裁判沙汰になる
  • 1587年を最後に、ウィリアムは家族を残して忽然と消えてしまう

その後、ウィリアム・シェイクスピアの名前が歴史に現れるのは1593年6月まで待たなければなりません。この年、ロンドンで出版された詩集『ヴィーナスとアドーニス』の献辞に「青年貴族サウザンプトン伯爵(ヘンリー・リズリー)へこの本を捧げる」とあり、ウィリアム・シェイクスピアの署名があります。

歴史上は、1593年までに『ヘンリー6世』三部作、『リチャード3世』、『タイタニス・アンドロニカス』、『ヴェローナの二紳士』『じゃじゃ馬馴らし』などを書いていたはずですが、彼は名前を出さずにいました。

シェイクスピア失踪から1593年まで、彼は行方不明になっていたことから、この期間は「シェイクスピアの失われた年月」(注3)と呼ばれています。

エリザベス女王の心


エリザベス女王が即位した時、イングランド内外は不穏な空気に包まれていました。

国を二分する宗教対立、エリザベス女王を暗殺して代わりの王を擁立しようと暗躍する動き、列強各国によるイングランド征服の野望。

これら全てに対抗するためには、弱くみられがちな女性という立場を払拭し、強い「王」を演じる必要があります(第45話参照)。

弱き者

生涯独身を宣言して男に頼らない姿勢を打ち出し、かえって美貌の女性という武器を用いて各国の為政者を籠絡。私掠船という「女王陛下の海賊」を駆使して大国スペインを翻弄。ヨーロッパ中にスパイ網を張り巡らし、各国の動向をつぶさに情報収集して戦略を練る。行幸の際には想像を絶する莫大な費用をかけて行い、その権勢を内外にアピールする。自分を暗示するキャラクターが劇中に使われても鷹揚に受け止め、民衆に懐の広さを示す。

エリザベス女王が統治したときのイングランドは、スペインの無敵艦隊アルマダを撃退しても相変わらず弱小国ではありました。しかし女王の戦いぶりは、将来、大英帝国を築きあげる礎になったのです。

では、彼女は本当に女神アルテミスになぞらえられるような、「鉄の女」だったのでしょうか。歴史は、彼女がじつは優柔不断な面ももちあわせていた、ということを伝えています。

たとえば、自分を暗殺しようと暗躍したスコットランド女王メアリ・ステュアートの処刑を、最後までためらったという事実があります。

メアリは、エリザベスの宗教政策に反対する勢力とかたらって、女王を暗殺しようとします。結局は捕まってロンドン塔に幽閉されましたが、そのときエリザベスは迷いに迷って、処刑という判断をくだしませんでした。決定したのは当時のイングランド議会です。

メアリ・ステュアートは、エリザベスの祖父であるヘンリー7世の孫にあたり、エリザベスとは血縁関係にあります。ヘンリー7世がスコットランドとの融和を図るために、長女マーガレットをスコットランド王ジェームズ4世に嫁がせました。その娘がメアリだったのです(第10話参照)。

メアリはジェームズ(後のスコットランド王ジェームズ6世、イングランド王ジェームズ1世)という息子をもうけましたが、その名付け親になったのがエリザベスであり、女王はジェームズをこよなく愛したということです。当時の情勢から、さすがに彼に会いにいくということはかないませんでしたが、産着などいろいろなものを送っていたとのこと。

世が世であればエリザベスとメアリは敵対することなく、ジェームズの誕生もふたりで喜びあったに違いありません。

もしかするとエリザベスは女王という立場を呪いながらも、運命に従うしかない弱い自分を押し殺していたのかもしれない、と私は愚考しております。

考察の結論

少年時代に贅沢三昧を経験したウィリアムは、将来は父と同じような権力者になることを夢見ていたかもしれませんし、あるいはグラマースクールを卒業したらロンドンに出て、オックスフォードかケンブリッジに入学し、好きな学問に打ち込もうと思っていた可能性もあります。

しかし突然、家は没落しました。直接の仇はトマス・ルーシーであり、ウィリアムも彼をからかう戯れ歌を書いてロンドンへ逃げたという説もあったりしますが、その大元つくったのはエリザベス女王です。

少年時代に抱いたエリザベス女王への憧れと、自分の家を没落させた張本人に対する恨み。これは想像にすぎませんが、家から忽然と姿を消したのは、この相反する心の葛藤に耐えきれずに逃避したのではないかと私は思っているのです。そしてその避難所を演劇界に求めた。

シェイクスピアは身を投じた演劇の世界でめきめきと頭角をあらわし、劇団は有名になっていき、ついには宮廷内でもお芝居を披露するようになると、女王に直接謁見する場面も増えただろうと思われます。

そうしたなかでシェイクスピアは、鉄の女王の仮面の下に隠された、弱い心を見てしまった。そして女王という立場を理解し、不安におののく少女のような女王に心を寄せて『夏の夜の夢』を書いたのではないか、と思ったのです。

飛躍のしすぎだとは思います。でも素人の厚かましさでブログには書いておきたいと思いました。

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(注1)女王一座

16世紀当時のイングランドでは演劇をはじめとする見世物が大流行りでしたが、劇団にはパトロンが付いていることが必須条件でした。

パトロンの付いていない劇団や見世物興行は浮浪者の集団とみなされました。浮浪者に対する処罰は法律によって厳しいものが課せられていて、むち打ちの刑に処されてもといた場所に強制送還されるか、環境劣悪な王立海軍に入隊させられました(「浮浪者取締法」 第1話参照

(注2)統一法

イングランド国教会の礼拝や祈祷の方式を定め、カトリックの方式を排除し、国教会に従わせる法律を「礼拝統一法(Act of Uniformity)」といいます。

1558年にエリザベス1世が制定した法により、国教会の体制が確立されました。この法により、国教会の礼拝や祈祷の基準が統一されてローマ教皇の権威が排除され、国王の力が高まりました。

(注3)シェイクスピアの失われた年月

家を飛び出した1587年から書籍にシェイクスピアの名が正式に印刷される1593年まで、彼の動向を知る手掛かりは今のところ見つかっていません。そのため、学者の間でもさまざまな憶測がなされていて、大国スペインの無敵艦隊と戦ったアルマダの海戦(1588年)に参戦したという説もあります。

そこでこの間を「シェイクスピアの失われた年月」といいます。

また演劇人シェイクスピアの書く脚本があまりにすばらしいので、ストラッドフォード・アポン・エイヴォンに生まれた人物とは別人、あるいは覆面作家がシェイクスピアの名を借りて脚本を書いたという説をとる学者もいます。彼らは、その覆面作家の正体として、オックスフォード伯爵、フランシス・ベーコン、クリストファー・マーロウなどといった高名な人の名前をあげているのです。

確かにシェイクスピアは、少年時代にグラマースクールを出ただけで大学には行っておらず、浅学の者が「万の心を持つ」といわれるほどの作品を書けるのだろうか、という疑問はわきます。しかし、シェイクスピアが通った「グラマースクール(文法の学校)」は、その名前のイメージとはまるで違うものなのです。

シェイクスピアは7歳から町のグラマースクール「キングズ・ニュースクール」に通いました。そこはラテン語の文法を教える学校でした。ここではもっぱらラテン語ばかりをみっちり教えます。

授業は夏ならば午前6時から、冬は午前7時から始まり、お昼以外はぶっ通しで5時か6時まで続きます。週6日の休暇なしというとてもハードなものでした。

『夏の夜の夢』に出てくるティターニアのモデルになったアルテミス(ダイアナ)の潔癖さを表す神話や『ピラモスとティスベ』の伝説は、オウィディウスが書いた『変身物語』に載っていますが、この書物はラテン語で書かれています。『変身物語』は授業に使われものと思われます。

本は当時高価で、貧乏になったシェイクスピアに本を手にいれる余裕はなかったといわれますが、ランカシャー州の貴族アレグザンダー・ホートンの家で家庭教師をしていたらしいという説があり、そこで好きなだけ本が読めたのではないかと考える学者もいます。

父親が金貸しをしていたこともあって、『ヴェニスの商人』を書く際に金貸しの裏事情に精通していたことが役だったでしょうし、演劇人として成功しても貧民街に住んで底辺の人たちと交わっていたといわれていますので、いわば実生活の体験から栄養を吸収するということもあったでしょう。

学問では得られない人生の機微は、グラマースクール時代に浴びるように読んだラテン語の書物、子どもの頃に見たきらびやかな世界、その後に訪れた辛酸を舐めるような不幸、下層民との触れ合い、宮廷のなかの権力争い、そういったことを経験したからこそ得られたのではないかと思います。

河合祥一郎氏は彼の著書『シェイクスピア』(中公新書)のなかで、ストラットフォード・アポン・エイヴォン生まれのシェイクスピアと、演劇人として成功したシェイクスピアが同一人物だとする動かぬ証拠があるとして、次のように書いています。

アン・ハサウェイと結婚して1616年にストラッドフォード・アポン・エイヴォンに埋葬されたシェイクスピアは、その遺書に「わが同僚ジョン・ヘミングス、リッチャード・バーベッジ、およびヘンリー・コンデル」の3人に26シリングを贈るように書いているのだ。ジョン・ヘリングスとヘンリー・コンデルとは、宮内大臣一座の役者であり、シェイクスピアの死後、1623年に劇団の座付作家であったシェイクスピアの戯曲全集1巻本(ファースト・フォリオ)を出版した編集者である。ゆえに、ヘミングズとコンデルが知る劇作家シェイクスピアは、ストラッドフォード・アポン・エイボンのシェイクスピアと同一人物ということになる。


●参考にした図書 

 『シェイクスピア』河合祥一郎・著 中公新書

ウィリアム・シェイクスピア(1564~1616)は、世界でもっとも知られた文学者だろう。『マクベス』や『ハムレット』など数々の名作は現代も読み継がれ、世界各国で上演され続けている。
本書は、彼が生きた時代背景を踏まえ、その人生や作風、そして作品の奥底に流れる思想を読み解く。

「万の心を持つ」と称された彼の作品は、喜怒哀楽を通して人間を映し出す。そこからは今にも通じる人生哲学も汲み取れるはずだ。
中公新書編集部







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明治大学文学部を卒業した後、ラボ教育センターという、子どものことばと心を育てることを社是とした企業に30数年間、勤めてきました。 全国にラボ・パーティという「教室」があり、そこで英語の物語を使って子どものことば(英語と日本語)を育てる活動が毎週行われています。 私はそこで、社会人人生の半分を指導者・会員の募集、研修の実施、キャンプの運営や海外への引率などに、後半の人生を物語の制作や会員および指導者の雑誌や新聞をつくる仕事に従事してきました。 このブログでは、私が触れてきた物語を起点として、それが創られた歴史や文化などを改めて研究し、発表する場にしたいと思っています。

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